無花果(2)2007年03月06日 11時01分47秒

 僕たちは高校を卒業すると大学に進学するために逃げるようにして田舎を飛び出した。僕たちは忌わしく呪われた過去をすべて捨て去って、まったく新しい自分に生まれ変われるような気がしていた。
 リカは学生寮に入り、僕はアパートを借りて新しい生活を始めた。二人の距離は電車で五駅分ほどだった。
 しかし生活が落ち着くにつれ、結局住む所が変わっても僕たちを取り巻く状況は何一つ変わってはいないのだということを思い知らされた。リカへの想いと満たされぬ止めどない性愛の情、深くえぐるように刻み込まれた精神的な傷と痛みといったようなものが僕のまわりをぐるりと取り囲み、徐々にその間隔を狭めてくるのだ。
 それでも学生生活はそれなりに楽しいものだった。人付き合いの苦手な僕にもそれなりに友人は出来たし、以前に比べれば生活していくことの動機付けも得やすくなった。少なくともがらんどうの僕の心にぺたぺたと色紙を貼っていくことくらいは出来たような気がした。
 僕はチェーンの大型スーパーの食料品売り場でレジ打ちや品出しのアルバイトをしていた。売り場のパート・アルバイトはパート、男子学生アルバイト、女子学生アルバイトがほぼ同じ割合で全部で二十人ほどだった。
 僕は特にレジ打ちが得意だった。客の持ってきた買い物カゴから空のカゴへ商品を一つ一つ移しながらその値段をレジのキーで打ち込むのだが、僕はすぐにキーを見ないで正確に入力できるようになったので時間もかからなかったし、商品だけ見ていれば済むため移動した商品も丁寧にきちんと並べることができた(まああまり愛想はよくなかったかもしれないが、僕は速くて正確で丁寧なのだ。それで勘弁して欲しい)。さらに野菜など日によって値段が変わるものも含めほとんどの商品の値段を覚えていたので、値札が付いていなくても困ることがなく、皆からもとても重宝がられた。
 リカとは時々会ってお互いの近況を報告しあったりした。しかしリカと一緒にいればいるほど、僕はどうしようもない倦怠感や乖離感に苛まれることが多くなっていた。それでも僕たちはなるべく一緒にいる時間を作ろうと努めた。そうすることでまだ見ぬ新たな何かが掴み取れると、あるいは失ってしまった何かが取り戻せると思っていたのかも知れない。

                         *

 バイト先のパートのおばさん達に混じって一人だけ少し若いヨウコさんという人がいた。歳の頃は二十七、八か、太ってはいないが少し大柄で髪が長くどちらかといえば清楚で幼い顔をしていた。性格はさっぱりしていて明るく、よく気が付いて面倒見がいいので、パート、アルバイト問わず皆に好かれていた。
 僕が一度値段を間違えた値札を大量に貼ってしまった時など、ヨウコさんは休憩時間にも関わらず貼り直すのを手伝ってくれて、皆に気付かれないように黙ってくれていた。もっとも僕は近くでしゃがんでいるヨウコさんの束ねた髪と制服の白い襟からのぞく襟足と、きれいで立派な素足に留まる短いソックスに目を奪われ、意外なほど肉感的な匂いにも鼻をくすぐられて、ほとんど仕事にはならなかったのだが。
 ある日休憩室でヨウコさんを囲んで皆で喋っている時に、話の流れでヨウコさんの家にバイト仲間数人で遊びに行くことになった。ウチ狭いよぉ、と顔をしかめながらヨウコさんは笑っていた。
 バイト先から程近い古びたアパートの二階にヨウコさんの家はあった。確かにヨウコさんの家は狭く、簡単な台所とトイレの他には六畳一間があるだけだった。
 ヨウコさんはアキラさんという男の人と一緒に住んでいた。ヨウコさんはアキラさんのことを“ウチの旦那”と呼んでいたが、結婚はしていないようだった。アキラさんはがっしりとした体と長めの髪に口ひげを生やし、よく動く大きな目が知的な印象だった。アキラさんも気さくで人懐っこい人で、あっという間に僕たちはすっかり打ち解けていた。
 テーブル代わりのコタツを皆で囲んで、僕たちはヨウコさんの(あの台所でどうやって作ったのかさっぱりわからないくらい見事な)手料理を食べて飲んた。アキラさんは昔絵を描いていたらしいが、今は絵筆を握ることもなくもっぱら肉体労働に従事しているらしい。実際のところアキラさんはとても博識で芸術から政治まであらゆることに造詣が深く、僕たちはすっかりアキラさんの話の楽しさに引き込まれた。確かに部屋には絵の道具は見当たらず、アキラさんは僕たちに色々と話して聞かせることで何かのうっぷんを晴らしているようにも見えた。僕はこの部屋に入った時に切なくなるようなセックスの残り香と共に、アキラさんのくすぶるような才気が狭い空間に渦巻いているのを感じていた。
 ヨウコさんはアキラさんと並ぶと一層しおらしく華やいで見えた。そんな二人からは淫靡な香りすら漂ってきて、僕はそれだけで妙な気分になったほどだ。
 僕たちはすっかり酔っ払ってしまい、帰るタイミングを失ってしまった。もう電車もないんだし明日は休みだから(僕たちはバイトがあるが)泊まっていきなさい、とヨウコさんたちに勧められ、僕たちはそのまま六畳間で雑魚寝することになった。
 明かりが消えて、やがて皆の寝息が聞こえてきた頃、僕はまだまんじりともせずに暗闇を見上げていた。僕とリカのことを考えながら、ヨウコさんとアキラさんのことも考えていた。僕たちと彼らを隔てているものは一体何なのだろうということを。
 やがて僕は夢の中でリカと会い、裸で抱き合いながらリカが僕の体を触るのを好きにさせていると、リカの手が僕のペニスに伸びてきた。すると驚いたことに僕のペニスははちきれんばかりに膨張し、リカの手の中で熱く律動していた。それはまるで焼け火箸でも股の間に挟んだかと思うほど火が噴き出さんばかりに熱く、痛いほどだった。そしてリカの手がゆっくりと優しく動き始めると、僕の体がペニスの先端から全て溶け出してしまいそうなくらいに痺れた。僕の頭から次第に白い霧が晴れるように向こう側の景色が見え始め、わけもなく怖くなった僕はそっと目を開けてみた。
 するとそこには暗闇の中で僕の毛布から顔を出しているヨウコさんがいた。ヨウコさんの息は甘く僕をくすぐり、その手は僕の股間の辺りで蠢いているのが毛布の動きでわかった。ヨウコさんの手は動きを次第に速めていき、やがて僕はその手に導かれるままに到達した。ヨウコさんは迸り出る僕をそのまま手で受け止めると、何か小さな布をあてがい拭き取った。そして今度はそっと手を当てて僕が鎮まるのを待った。
 僕がヨウコさんの腰をまさぐると、めくれあがったスカートの下には下着の感触はなく、逞しく張り切った腰が直接僕の手に触れた。僕がヨウコさんの深みを求めて彷徨っていると、ふいに僕はヨウコさんに暖かく包まれて吸い込まれるように沈んでいった。
 すると白い霧が再びあたりを次第に覆い始め、遙か彼方に僕を連れ去っていった――。
 朝、ヨウコさんは僕たちに朝ご飯を作ってくれた。アキラさんは新聞を読みながらテレビにも目をやり、ほとんど食卓を見ないで食べていた。
「ユウくん、彼女はいるの?」
 と突然ヨウコさんが僕に訊ねた。
「えぇ、まぁ、一応いますけど」
 僕はヨウコさんの目を見ずに答えた。
「なぁに、一応って? じゃあ、今度彼女と一緒にまた遊びにいらっしゃい。ねぇ――」
 アキラさんは相変わらず新聞とテレビを交互に見ながら、「あぁ」と上の空で答えた。



(まだ続く)