旅立ち2009年06月08日 16時08分02秒

 そこはかつて東洋のエメラルドと呼ばれた美しく小さな国だった。空は果てしなく高く、その中心には底が見通せないほど深く大きな湖があり、国境をなぞるように周囲を濃い森が囲んでいた。過大な夢を抱くことはままならないが、身の丈に合った幸福を望むのならそれなりに暮らしやすいところではあった。
 しかしそんなつましい民が暮らす国には似つかわしくない災厄が、微かな音を立てながらじわりじわりとその国土を浸食していった。最初は森だった。森の影が次第に薄くなってきて、その向こうに拡がる一面の砂漠が露わになった。砂はそれほど時間をかけずに森を食い尽くし、それは今ではただの砂の丘陵となった。砂による浸食はそれにとどまらず、ただでさえ狭い国土は確実に砂漠化の一途を辿っていた。それがこの国のみずがめでもある湖に及んだ時、それは滅亡を意味することになる。
 長老たちからなる元老委員会はその原因を遠く砂漠の果てに見いだした。邪悪なる地に災いをもたらすかめがあり、そこからは水がこんこんと湧き出ている。さらにそこから生み出される魔物があたりを一瞬のうちに砂漠に変えてしまうという。かめの底には見たこともないくらい美しい金貨が沈んでいて、それを奪い取ることができれば砂漠と化した土地も元の瑞々しさを取り戻すということらしい。しかし誰一人としてそんなかめはおろか、魔物や金貨など見たことのあるものなどいなかった。
 砂漠化対策の責任者に任命された元老委員であるモジカは頭を抱えていた。委員会での討議の結果、まずは若い男女をはるか砂漠の果てまで旅にやることが肝要という結論に達し、なぜそんなことをする必要があるのか首を傾げていたモジカにはその男女の人選が一任されることになった。
 将来のある若者を一体何が潜んでいるのかわからない砂漠の果てに旅に出すことなど、とてもおいそれとできることではない。かといって元老委員会の結論に従わないわけにもいかなかった。理由はよくわからないにしても、それがこの問題を解決するのにどうしても必要なのだろうということだけは、若いながら元老の一員であるモジカにはおぼろげながらわかっていたからだ。
 そこでまずは国民から広く募ることにした。テレビや立て看板で「救世主求む! 若い男女限定。」とやってみたが、しかし全く反応がない。その頃には国中が砂漠になってしまうという恐怖と不安のあまり、国民は暴徒と化して破壊と略奪を繰り返すようになっていたので無理もない話である。
 ムジカはありとあらゆるつてを辿って適任となる若者を探し続けたが、まるで砂に押し流されるようにすべてがきれいに徒労と終わった。
 マジコはそんな父の苦労を見るに付け、せめてもの手助けにと毎日のように街頭に出て民衆に平静を取り戻すように呼びかけた。しかしある日興奮した男たちによってたかって引きずり倒されてしまい、男たちの形相からより深刻な身の危険が迫っているのを感じると、全身の力を抜いて神に祈った。
 するとそこに小柄ながらがっしりした体格の若者が割って入った。空っぽの手のひらをぐるりとみんなに見せた後、手を閉じて開くたびにそこから次々とタマゴを取り出してみせた。回りの人にあらかたタマゴが行き渡ったところで、若者はマジコに絡みつく手を一つ一つ振りほどくと、ポカンとした顔で眺めている人々の前でマジコの体をゆっくりと大事そうに抱え上げて去っていった。
 彼はグランといい、東方からやってきた旅の若者だった。グランによると彼のやってきた方角にはまだ美しい緑が溢れていて、ここにきて砂漠化の話を聞いて旅を続けるかどうか考えているところだという。この東方から来た若者の澄んだ瞳はマジコの希望に灯をつけた――。
 数日してマジコはグランの手をとってムジカに会いに行った。そしてグランと二人で砂漠へ旅に行かせて欲しい、と頼んだ。ムジカは当然のように猛反対したが、元老委員としての責任やマジコの気持ちを考え、グランの誠実そうな瞳を前にして結局折れてしまった。
 マジコとグランが旅立つ日、相変わらず騒然とする街とそしてムジカに見送られ二人は西へ、延々と続く砂漠へと出発した。グランが先を歩き、マジコがそれに続いた。砂漠は砂嵐に包まれ二人の行く手を阻んでいた。ずっと立ったまま見送っているであろうムジカの姿もすぐに見えなくなった。それから二人は振り向くことも、一言も交わすこともなく俯いたまま歩を進めていった。何度目かの昼と夜が過ぎ、あたりは地平線まで見渡す限りの砂漠になった。