SOLITUDE ― 2009年08月02日 00時54分09秒
「――で、どうでしょう? 先生」
妻が椅子に座って身を屈めながら両手を組み合わせ、祈るように言葉を吐き出した。少しはだけたブラウスの胸元がやつれたようによじれ、それに続く大きな襟が右側だけベージュのカーディガンからはみ出していた。いつもは生意気そうな目は今にも息が止まりそうに大きく見開かれ、その小さくツンと上を向いた鼻につられるように口元は半開きだった。
僕は妻の胸元を視線で塞ぐように覗き込みながら、若い男の医師の視線を探った。しかし医師は下を向いたまま、机に拡げたカルテに青いインクの万年筆でなにやらカリカリと書き込んでいた。眼鏡のレンズの表面にはレントゲン画像を映写するための強烈な光が全面に反射し、ようやくカルテを書き終えて顔を上げ唇の端で軽く微笑んだ時には、その顔はまるで気のいいカマキリのように見えた。
そして医師はすぐに口を軽くへの字に曲げ、緊迫感のない、今にもなにか他愛のないプライベートな悩みでも切り出しそうな困った顔をした。
「えー、それでですね、検査の結果なんですけれど……」
妻がさらに身をのりだして胸元がたわんだ。医師は目の前に開かれた妻の胸の中を人体模型でも見るような職業的な眼差しで覗き込んだ。淡い光が収束し漆黒の闇が立ち上がるその間際を。
「……お二人とも特に異常というようなものは見つかりませんでした。奥さんの頚管も子宮も卵管も卵巣も全く問題ありません。見せてあげたいくらい完全にきれいです。ご主人も特に問題ありませんね。精子もうじゃうじゃいますし」
医師はそう言うと深刻な空気を払うように乾いた甲高い声で笑った。妻は姿勢を正して座り直し口をつぐんだ。僕は小さくため息をついてから医師の方を見た。医師は笑うのを止めて咳払いをした。
「お話を伺ったり検査をした限りではホルモンの異常も特に認められませんでしたし、お二人の不妊に関してはフィジカルな問題である可能性は極めて低いと言わざるを得ませんね。そういうことですから後は普段からストレスの少ない生活を心がけて、焦らずにゆったりとした気持ちで子作りに励まれたらどうですか? 検査の結果に問題はないわけですから、そうすれば間違いなくうまくいきますよ。私が保証します」
僕たちは病院を出ると「それじゃ」と言って、妻は駐車場に停めてある車に向かって歩き出し、僕は地下鉄の駅を目指して正面玄関を出た。今日はお互いにまだ仕事が残っていた。
僕たちは結婚して七年になる。僕は一年前に転職をして今は小さな商社で慣れない営業の仕事に就いている。五年前に近郊のベッドタウンに家を買った。妻は郊外にある高校で英語の教師をしている。転職してからの仕事はとても忙しく、夜中に帰宅することも多くなり、確かに妻とは最近少しすれ違い気味ではある。
僕はもう半分子供は諦めているが、妻は結婚当初から一貫して強く子供を欲しがっていた。妻が幼い頃父親が事故で亡くなり、母親に苦労をかけながら育った。その母も昨年あたりから体の具合が悪くなりすっかり弱ってしまった。妻はそんな私たちにこそ子供は必要なのよ、と言う。今までの苦労が報われ、魂が慰謝される存在。私たちは救われるべきなのよ。だいいち家族をつないでいくのは人として当然のことでしょ? 子供を作らないなんてのは反社会的なだけじゃなくて人道的にもおおいに問題だわ。
僕にも田舎で細々と電気店を営みながら一人息子に気をかけている両親がいる。その両親に子供ができたことを報告できたとしたらどんなに喜ぶだろう。しかし僕たちは互いに対する情熱だけを勢いにかえて子供を作ることができる時期はもうとっくに過ぎていた。そして僕はどうも理性的、計画的に子供を作るという考え方や行動に疑問を感じていた。たとえ頭で無理矢理理解したとしても体が追従しないのだ。もちろん妻との交渉がまったくないわけではない。まあ生理的な欲求を解消する程度ではあるが、妻も別段それで文句を言うわけでもない。僕たちの間にはまだメンタルな亀裂は入っていないのだ。それでいいじゃないか。自然なことだ。いったい何が問題なんだ?
しかし妻は、それにしてもこれだけ子供ができないのはおかしいと、以前から病院で一度看てもらおうと言っていた。そして必要ならば不妊治療も辞さないというほどの決意のようだった。僕はずるずると先延ばしにしていたのだがとうとう観念して、妻の知り合いに紹介してもらった病院で検査を受けることにした。
そしてその結果を今日聞きに行ったのだ。振り向くと車に乗り込む妻は思い詰めたような表情をしていた。セルを回す音に続いてエンジンが動き出した音は聞こえたが、車はなかなかその場を動かなかった。僕は車が見えないところまで来ると、会社に電話をかけた。事務をやっているアユミの声が聞こえ、名前を告げると「あら」と少し声が華やいだ。今から会社に戻るから、と言うと「はーい、待ってまーす」とおどけた声を出した。
その日は夜それほど遅くない時間に家に帰った。
「なによぉ、急に帰ってきたりして。帰る前は電話してっていってるでしょ」
そうはいいながらどういうわけか妻は上機嫌で、少し酒も飲んでいるようだった。残り物だけど、と言いながら手早く簡単な食事を用意してくれた。僕は風呂に入ってから食事をとって、リビングのソファに体を預けてテレビのスポーツニュースをみた。
ふとテーブルの下を見ると、なにかノートのようなものが少しはみ出していた。手書きでクラス名と男の名前が不器用そうな字で書いてある。生徒のものだろうか? でもどうして家の中に、しかも隠すようにして置いてあるのだろう。そのとき僕にはなんだかそれが触れてはいけないもののように思えて、妻が近くにいないのを確かめると足の先でノートが全部テーブルの下に隠れるように押し込んだ。
ベッドの中で僕は今日のことについて話した。
「体になにも問題がないんだったら仕方ないよ。先生の言うようにのんびりやるしかないだろ。まあ焦らなくてもそのうちなんとかなるさ」
妻はそれについてはなにも言わず、黙って僕の首に両手を回し抱きついてきた。僕は自分の心臓の鼓動が必要以上に緩慢ではないだろうか、と気になった。妻はしばらくなにかを確かめるようにそのままじっとしていた。妻の息が僕の胸元に漏れ、耳はまだ微かに濡れた髪に埋もれた。甘い香りに包まれた亡霊のように覆い被さる妻の体を僕はそっと抱きしめた。
「愛してるわ。これからもずっとあなたと一緒にいるわ。いえ、今まで以上によ。ずっと一生一緒にいるわ」
妻の声が空っぽの僕の体に響き、いつまでもこだました。
「今度の名画座はロッセリーニですよ。もちろん行きますよね?」
アユミが姿勢を低くしてするすると僕の席まで近づいてくると、机から両手と頭だけを出してにこにこしながら言った。
「え、ほんと? 行く行く、絶対行く」目の前でアユミの笑顔がもっと大きくなった。
僕とアユミは二人とも普通の映画好きではなく、イタリア映画が特に好みだという点で趣味が合った。まわりにイタリア映画を好んで観るものなどほとんどいるわけもなく、僕とアユミは共通の趣味を持ったもの同士として仲良くなった。そして二人とも映画館派だったので、イタリア映画を上映している映画館を探しては二人で観に行くようになった。初めて一緒に観たのは『自転車泥棒』だったか、『鉄道員』だったか――それから平均して数ヶ月おきに二人で一緒に映画を観に行った。
映画館に行く日は頑張って仕事を早く終わらせて、映画館の最寄りの駅でアユミと待ち合わせをする。映画館を出た後は、時間があれば二人でカフェやバールに入り映画の話に花を咲かせた。会社では華奢でおかっぱ頭の地味な印象のアユミだか、僕と映画の話をするときは身振りや手振りを交え、目を輝かせながら紅潮した顔で少しどもりながらとてもチャーミングに話す。僕は映画はもちろんだか、そんなアユミと過ごす時間がとても愛おしく楽しかった。
「今日はわたしのおごりですからね」
いつもはワリカンのはずなのに、チケット売り場で伏し目がちに振り向いたアユミはそう言って僕にチケットを一枚渡した。
館内はがらがらで、そのせいかとても広く感じる空間には埃の匂いが充満していた。僕とアユミは後ろの方に席を取り、並んで座った。
映画が始まって一時間くらい経った頃だろうか。僕がアユミの方に掛けていた肘にそっと触れるものがあった。暗がりに目を凝らしてよく見ると、アユミが反対側の手で僕の肘から腕を辿り手のひらを探り当ててそれを自分の方に引きずり下ろし、僕に近い方の手で握り直すと手を組むようにして手のひらと手のひらを密着させぐっと引き寄せた。僕の手はアユミの太ももと手のひらで挟まれる格好になったが、アユミの目はまっすぐスクリーンを見つめたままで、自分と僕との間に起きていることなど知ったことではないとでもいいたげな表情だった。しかしアユミの温かい太ももは恐ろしく弾力に満ちていて、その手のひらはひどく湿っていた。
結局そのまま僕たちは手を握ったまま二本立ての映画を見終えた。僕がそっと手を引き抜こうとすると小さく抵抗された。映画館を出てから先に歩いていたアユミがくるりと振り向いて、「わたしがおごってあげたんだからいいでしょ?」と言って笑った。
僕はもう時間も遅いから、と言ってアユミが乗る電車の改札の前で別れた。
僕は会社の営業用の車を運転して、今日は郊外にあるいくつかの電機メーカーに納品に回っていた。最後に一番自宅に近い会社を回った後、国道沿いのハンバーガーショップで休憩しようと駐車場に入った。
何気なく正面にあったドライブスルーのレーンを見ると、そこには妻の車が停まっていた。確かに妻が窓から少し顔を出してなにやら注文しているところだった。助手席に誰か乗っているようだ。髪が長く白いシャツを着ている。車が動いてぐるりと受け取り口まで進んだ。助手席に乗っているのはどうやら男のようだ。僕は車の中で少し身をかがめながらその男の横顔をじっと見ていた。妻は大きな白い袋を一つ受け取り、代金を支払うと、国道を左側に出た。僕はそのまま車を出して、妻の車の後を追った。
妻と男を乗せた車は見慣れた道をたどって十分ほど走った後、家の近くにある小さな公園で一旦停まり、男を降ろした。男は高校の制服を着ている。妻が教えている高校の生徒なのだろう。男は小さく手を上げて車を見送った。僕は車を追ってまた走り出した。妻の車はそのまままっすぐ自宅の駐車場に入り、白い袋とバッグを手に提げ、玄関を開けて家に入っていった。僕は車を家の裏手が見通せる道に移動して待っていた。五分ほどするとさっきの男が現れ、あたりを伺いながらすっと僕の家と隣の家の間の隙間に入っていった。勝手口のドアは中から開けられていたらしく、男は慣れた手つきでドアを開け中に入っていった。
そこまで見届けたところで、僕は車をゆっくり出して会社に帰った。
「あ、お疲れ様でーす」アユミがまだ残っていて、PCの画面から目をはずし僕の顔を見るとあごを突き出しながら言った。
「なにやってんの? 残業?」
「いいえ、次に観る映画を探してたんですよ。でもね、近場ではどうもこのところ観るべきものがありませんねぇ。足を伸ばせばないことはないんですけど、会社終わってからじゃ遠すぎますもんね」
「ふーん、じゃあ今度は休みの日にでも一緒に行く?」アユミの顔がぱっと輝いた。
「え、いいんですかぁ? でも奥さんは大丈夫なんですか?」
「ああ、平気平気。あっちも好きにやってるからさ、大丈夫」
「うーん、そういうことなら結構選べますね。わかりました。いいやつ調べときますね」
大きくうなずきながらそう言うと、アユミはまたPCの画面を真剣な目でのぞき込み、マウスをせわしなく動かしながらカチカチとクリックした。
このときうかつにも僕はアユミに男がいる可能性についてなどまったく考えもしなかった。
数日後、僕は妻のいない間に、寝室に見つからないように小さなカメラを仕掛けた。そしてそれを自室のPCとつなぎタイマー録画できるようにセットした。それから帰りが遅くなった日は録画したビデオをチェックし、妻の不倫の証拠を掴もうとした。
一週間、二週間が経った頃、ビデオのフレームに妻ともう一人若い男が映っていた。この前の男と同じ人物のようだ。二人は慣れた様子で互いの服を脱がせながらフレームインし、そのままベッドに倒れ込んだ。妻は僕に今まで見せたことのないような媚態や痴態で男を誘い、存外に逞しい若い男の体にとりつくように絡みついた。二人は互いを飽きることなく求め続け、そして互いに尽きることなく与え続けた。音声のないやや色の褪せたその画像はまるで見たこともない動物の求愛のダンスのようにも見えたし、新手の格闘技のエキシビションのようにも見えた。僕は二人の動きを目で追い、妻の表情を確かめながら、二人が動かなくなり、そして体が離れて、二人がフレームアウトするまでそのままじっと画面を見ていた。
それから二週間の間に二度、妻と若い男は僕のカメラの前で同じように痴態を繰り広げた。僕はその一部始終を一フレームたりとも見逃さないように早送りもせず全てチェックした。
数日後、僕にその証拠を突きつけられた妻は意外にも悪びれることもなく激昂して、
「どうしてそんなことをするのよ! そんなビデオを撮ってなにが楽しいの? どうだった? 興奮した? 少しは妬けたの? どうなのよ!」と言って、カメラのコードを引きちぎって僕に投げつけた。カメラは僕の体をかすめてから、大げさな音を立ててフローリングの床に転がった。僕は床についた傷が気になり、カメラの転がっていった軌跡を目でなぞった。妻は興奮がおさまると今度は「ごめんなさい。ごめんなさい」と言いながらさめざめと泣き出した。深夜になってベッドに入ってきた妻は、男とはもう別れるから、あなたを愛してるの、と言った。僕はなにも言わなかった。
それから僕はビデオを撮ることはもちろん、妻の行動を監視したりすることも一切しなくなった。
「今日は僕のおごりだからさ」
アユミは少し驚いたような顔で僕を見ながら、ゆっくりとチケットを受け取った。そしてふふっ、と小さく笑った。
席に座ってから僕はアユミの手を取ると僕の手をからめて握りしめた。アユミの手のひらはまたじっとりと濡れていた。映画を観ている間中、アユミの手はたびたび力を抜いたかと思うとまたしっかりと指をからませさらに力を入れて握ってきた。
映画館を出たあと、「次も僕がおごるよ」と言ってホテルに誘った。アユミは着やせするタイプのようで、服を脱いだその体はなんら問題のない造形をしていた。それまでずっと互いに手をからませていたせいか、僕たちの心と体はもうすでに十分に潤っていた。僕とアユミはまるで手のひらを重ねるように自然に体を重ねていった。ふと妻と若い男とのビデオに映った映像が頭をよぎり、僕はアユミの無防備な体に、体の底から湧き上がる欲望とも怒りともつかぬ昂まりを思い切りぶつけた。アユミの体は苦悶しながら溶け出していき、僕の全てを包み込むと鋭く煌めきながら夜空の果てに流れ去っていった。
僕がアユミから体を離すと、アユミはそのままベッドでシーツを身にまとい嗚咽をあげた。どうしたの? と僕が聞くと、
「――わたし、妊娠してるんです。つきあってる人がいて――」と涙声で言った。
そのとき、電話が鳴った。アユミを振り返り、いぶかしがりながら電話に出る。受話器の向こうからは闇の中をさまようような頼りなげな妻の声が聞こえてきた。
「今どこにいるの? 誰かと一緒なの? 早く帰ってきて――」
妻が椅子に座って身を屈めながら両手を組み合わせ、祈るように言葉を吐き出した。少しはだけたブラウスの胸元がやつれたようによじれ、それに続く大きな襟が右側だけベージュのカーディガンからはみ出していた。いつもは生意気そうな目は今にも息が止まりそうに大きく見開かれ、その小さくツンと上を向いた鼻につられるように口元は半開きだった。
僕は妻の胸元を視線で塞ぐように覗き込みながら、若い男の医師の視線を探った。しかし医師は下を向いたまま、机に拡げたカルテに青いインクの万年筆でなにやらカリカリと書き込んでいた。眼鏡のレンズの表面にはレントゲン画像を映写するための強烈な光が全面に反射し、ようやくカルテを書き終えて顔を上げ唇の端で軽く微笑んだ時には、その顔はまるで気のいいカマキリのように見えた。
そして医師はすぐに口を軽くへの字に曲げ、緊迫感のない、今にもなにか他愛のないプライベートな悩みでも切り出しそうな困った顔をした。
「えー、それでですね、検査の結果なんですけれど……」
妻がさらに身をのりだして胸元がたわんだ。医師は目の前に開かれた妻の胸の中を人体模型でも見るような職業的な眼差しで覗き込んだ。淡い光が収束し漆黒の闇が立ち上がるその間際を。
「……お二人とも特に異常というようなものは見つかりませんでした。奥さんの頚管も子宮も卵管も卵巣も全く問題ありません。見せてあげたいくらい完全にきれいです。ご主人も特に問題ありませんね。精子もうじゃうじゃいますし」
医師はそう言うと深刻な空気を払うように乾いた甲高い声で笑った。妻は姿勢を正して座り直し口をつぐんだ。僕は小さくため息をついてから医師の方を見た。医師は笑うのを止めて咳払いをした。
「お話を伺ったり検査をした限りではホルモンの異常も特に認められませんでしたし、お二人の不妊に関してはフィジカルな問題である可能性は極めて低いと言わざるを得ませんね。そういうことですから後は普段からストレスの少ない生活を心がけて、焦らずにゆったりとした気持ちで子作りに励まれたらどうですか? 検査の結果に問題はないわけですから、そうすれば間違いなくうまくいきますよ。私が保証します」
僕たちは病院を出ると「それじゃ」と言って、妻は駐車場に停めてある車に向かって歩き出し、僕は地下鉄の駅を目指して正面玄関を出た。今日はお互いにまだ仕事が残っていた。
僕たちは結婚して七年になる。僕は一年前に転職をして今は小さな商社で慣れない営業の仕事に就いている。五年前に近郊のベッドタウンに家を買った。妻は郊外にある高校で英語の教師をしている。転職してからの仕事はとても忙しく、夜中に帰宅することも多くなり、確かに妻とは最近少しすれ違い気味ではある。
僕はもう半分子供は諦めているが、妻は結婚当初から一貫して強く子供を欲しがっていた。妻が幼い頃父親が事故で亡くなり、母親に苦労をかけながら育った。その母も昨年あたりから体の具合が悪くなりすっかり弱ってしまった。妻はそんな私たちにこそ子供は必要なのよ、と言う。今までの苦労が報われ、魂が慰謝される存在。私たちは救われるべきなのよ。だいいち家族をつないでいくのは人として当然のことでしょ? 子供を作らないなんてのは反社会的なだけじゃなくて人道的にもおおいに問題だわ。
僕にも田舎で細々と電気店を営みながら一人息子に気をかけている両親がいる。その両親に子供ができたことを報告できたとしたらどんなに喜ぶだろう。しかし僕たちは互いに対する情熱だけを勢いにかえて子供を作ることができる時期はもうとっくに過ぎていた。そして僕はどうも理性的、計画的に子供を作るという考え方や行動に疑問を感じていた。たとえ頭で無理矢理理解したとしても体が追従しないのだ。もちろん妻との交渉がまったくないわけではない。まあ生理的な欲求を解消する程度ではあるが、妻も別段それで文句を言うわけでもない。僕たちの間にはまだメンタルな亀裂は入っていないのだ。それでいいじゃないか。自然なことだ。いったい何が問題なんだ?
しかし妻は、それにしてもこれだけ子供ができないのはおかしいと、以前から病院で一度看てもらおうと言っていた。そして必要ならば不妊治療も辞さないというほどの決意のようだった。僕はずるずると先延ばしにしていたのだがとうとう観念して、妻の知り合いに紹介してもらった病院で検査を受けることにした。
そしてその結果を今日聞きに行ったのだ。振り向くと車に乗り込む妻は思い詰めたような表情をしていた。セルを回す音に続いてエンジンが動き出した音は聞こえたが、車はなかなかその場を動かなかった。僕は車が見えないところまで来ると、会社に電話をかけた。事務をやっているアユミの声が聞こえ、名前を告げると「あら」と少し声が華やいだ。今から会社に戻るから、と言うと「はーい、待ってまーす」とおどけた声を出した。
その日は夜それほど遅くない時間に家に帰った。
「なによぉ、急に帰ってきたりして。帰る前は電話してっていってるでしょ」
そうはいいながらどういうわけか妻は上機嫌で、少し酒も飲んでいるようだった。残り物だけど、と言いながら手早く簡単な食事を用意してくれた。僕は風呂に入ってから食事をとって、リビングのソファに体を預けてテレビのスポーツニュースをみた。
ふとテーブルの下を見ると、なにかノートのようなものが少しはみ出していた。手書きでクラス名と男の名前が不器用そうな字で書いてある。生徒のものだろうか? でもどうして家の中に、しかも隠すようにして置いてあるのだろう。そのとき僕にはなんだかそれが触れてはいけないもののように思えて、妻が近くにいないのを確かめると足の先でノートが全部テーブルの下に隠れるように押し込んだ。
ベッドの中で僕は今日のことについて話した。
「体になにも問題がないんだったら仕方ないよ。先生の言うようにのんびりやるしかないだろ。まあ焦らなくてもそのうちなんとかなるさ」
妻はそれについてはなにも言わず、黙って僕の首に両手を回し抱きついてきた。僕は自分の心臓の鼓動が必要以上に緩慢ではないだろうか、と気になった。妻はしばらくなにかを確かめるようにそのままじっとしていた。妻の息が僕の胸元に漏れ、耳はまだ微かに濡れた髪に埋もれた。甘い香りに包まれた亡霊のように覆い被さる妻の体を僕はそっと抱きしめた。
「愛してるわ。これからもずっとあなたと一緒にいるわ。いえ、今まで以上によ。ずっと一生一緒にいるわ」
妻の声が空っぽの僕の体に響き、いつまでもこだました。
「今度の名画座はロッセリーニですよ。もちろん行きますよね?」
アユミが姿勢を低くしてするすると僕の席まで近づいてくると、机から両手と頭だけを出してにこにこしながら言った。
「え、ほんと? 行く行く、絶対行く」目の前でアユミの笑顔がもっと大きくなった。
僕とアユミは二人とも普通の映画好きではなく、イタリア映画が特に好みだという点で趣味が合った。まわりにイタリア映画を好んで観るものなどほとんどいるわけもなく、僕とアユミは共通の趣味を持ったもの同士として仲良くなった。そして二人とも映画館派だったので、イタリア映画を上映している映画館を探しては二人で観に行くようになった。初めて一緒に観たのは『自転車泥棒』だったか、『鉄道員』だったか――それから平均して数ヶ月おきに二人で一緒に映画を観に行った。
映画館に行く日は頑張って仕事を早く終わらせて、映画館の最寄りの駅でアユミと待ち合わせをする。映画館を出た後は、時間があれば二人でカフェやバールに入り映画の話に花を咲かせた。会社では華奢でおかっぱ頭の地味な印象のアユミだか、僕と映画の話をするときは身振りや手振りを交え、目を輝かせながら紅潮した顔で少しどもりながらとてもチャーミングに話す。僕は映画はもちろんだか、そんなアユミと過ごす時間がとても愛おしく楽しかった。
「今日はわたしのおごりですからね」
いつもはワリカンのはずなのに、チケット売り場で伏し目がちに振り向いたアユミはそう言って僕にチケットを一枚渡した。
館内はがらがらで、そのせいかとても広く感じる空間には埃の匂いが充満していた。僕とアユミは後ろの方に席を取り、並んで座った。
映画が始まって一時間くらい経った頃だろうか。僕がアユミの方に掛けていた肘にそっと触れるものがあった。暗がりに目を凝らしてよく見ると、アユミが反対側の手で僕の肘から腕を辿り手のひらを探り当ててそれを自分の方に引きずり下ろし、僕に近い方の手で握り直すと手を組むようにして手のひらと手のひらを密着させぐっと引き寄せた。僕の手はアユミの太ももと手のひらで挟まれる格好になったが、アユミの目はまっすぐスクリーンを見つめたままで、自分と僕との間に起きていることなど知ったことではないとでもいいたげな表情だった。しかしアユミの温かい太ももは恐ろしく弾力に満ちていて、その手のひらはひどく湿っていた。
結局そのまま僕たちは手を握ったまま二本立ての映画を見終えた。僕がそっと手を引き抜こうとすると小さく抵抗された。映画館を出てから先に歩いていたアユミがくるりと振り向いて、「わたしがおごってあげたんだからいいでしょ?」と言って笑った。
僕はもう時間も遅いから、と言ってアユミが乗る電車の改札の前で別れた。
僕は会社の営業用の車を運転して、今日は郊外にあるいくつかの電機メーカーに納品に回っていた。最後に一番自宅に近い会社を回った後、国道沿いのハンバーガーショップで休憩しようと駐車場に入った。
何気なく正面にあったドライブスルーのレーンを見ると、そこには妻の車が停まっていた。確かに妻が窓から少し顔を出してなにやら注文しているところだった。助手席に誰か乗っているようだ。髪が長く白いシャツを着ている。車が動いてぐるりと受け取り口まで進んだ。助手席に乗っているのはどうやら男のようだ。僕は車の中で少し身をかがめながらその男の横顔をじっと見ていた。妻は大きな白い袋を一つ受け取り、代金を支払うと、国道を左側に出た。僕はそのまま車を出して、妻の車の後を追った。
妻と男を乗せた車は見慣れた道をたどって十分ほど走った後、家の近くにある小さな公園で一旦停まり、男を降ろした。男は高校の制服を着ている。妻が教えている高校の生徒なのだろう。男は小さく手を上げて車を見送った。僕は車を追ってまた走り出した。妻の車はそのまままっすぐ自宅の駐車場に入り、白い袋とバッグを手に提げ、玄関を開けて家に入っていった。僕は車を家の裏手が見通せる道に移動して待っていた。五分ほどするとさっきの男が現れ、あたりを伺いながらすっと僕の家と隣の家の間の隙間に入っていった。勝手口のドアは中から開けられていたらしく、男は慣れた手つきでドアを開け中に入っていった。
そこまで見届けたところで、僕は車をゆっくり出して会社に帰った。
「あ、お疲れ様でーす」アユミがまだ残っていて、PCの画面から目をはずし僕の顔を見るとあごを突き出しながら言った。
「なにやってんの? 残業?」
「いいえ、次に観る映画を探してたんですよ。でもね、近場ではどうもこのところ観るべきものがありませんねぇ。足を伸ばせばないことはないんですけど、会社終わってからじゃ遠すぎますもんね」
「ふーん、じゃあ今度は休みの日にでも一緒に行く?」アユミの顔がぱっと輝いた。
「え、いいんですかぁ? でも奥さんは大丈夫なんですか?」
「ああ、平気平気。あっちも好きにやってるからさ、大丈夫」
「うーん、そういうことなら結構選べますね。わかりました。いいやつ調べときますね」
大きくうなずきながらそう言うと、アユミはまたPCの画面を真剣な目でのぞき込み、マウスをせわしなく動かしながらカチカチとクリックした。
このときうかつにも僕はアユミに男がいる可能性についてなどまったく考えもしなかった。
数日後、僕は妻のいない間に、寝室に見つからないように小さなカメラを仕掛けた。そしてそれを自室のPCとつなぎタイマー録画できるようにセットした。それから帰りが遅くなった日は録画したビデオをチェックし、妻の不倫の証拠を掴もうとした。
一週間、二週間が経った頃、ビデオのフレームに妻ともう一人若い男が映っていた。この前の男と同じ人物のようだ。二人は慣れた様子で互いの服を脱がせながらフレームインし、そのままベッドに倒れ込んだ。妻は僕に今まで見せたことのないような媚態や痴態で男を誘い、存外に逞しい若い男の体にとりつくように絡みついた。二人は互いを飽きることなく求め続け、そして互いに尽きることなく与え続けた。音声のないやや色の褪せたその画像はまるで見たこともない動物の求愛のダンスのようにも見えたし、新手の格闘技のエキシビションのようにも見えた。僕は二人の動きを目で追い、妻の表情を確かめながら、二人が動かなくなり、そして体が離れて、二人がフレームアウトするまでそのままじっと画面を見ていた。
それから二週間の間に二度、妻と若い男は僕のカメラの前で同じように痴態を繰り広げた。僕はその一部始終を一フレームたりとも見逃さないように早送りもせず全てチェックした。
数日後、僕にその証拠を突きつけられた妻は意外にも悪びれることもなく激昂して、
「どうしてそんなことをするのよ! そんなビデオを撮ってなにが楽しいの? どうだった? 興奮した? 少しは妬けたの? どうなのよ!」と言って、カメラのコードを引きちぎって僕に投げつけた。カメラは僕の体をかすめてから、大げさな音を立ててフローリングの床に転がった。僕は床についた傷が気になり、カメラの転がっていった軌跡を目でなぞった。妻は興奮がおさまると今度は「ごめんなさい。ごめんなさい」と言いながらさめざめと泣き出した。深夜になってベッドに入ってきた妻は、男とはもう別れるから、あなたを愛してるの、と言った。僕はなにも言わなかった。
それから僕はビデオを撮ることはもちろん、妻の行動を監視したりすることも一切しなくなった。
「今日は僕のおごりだからさ」
アユミは少し驚いたような顔で僕を見ながら、ゆっくりとチケットを受け取った。そしてふふっ、と小さく笑った。
席に座ってから僕はアユミの手を取ると僕の手をからめて握りしめた。アユミの手のひらはまたじっとりと濡れていた。映画を観ている間中、アユミの手はたびたび力を抜いたかと思うとまたしっかりと指をからませさらに力を入れて握ってきた。
映画館を出たあと、「次も僕がおごるよ」と言ってホテルに誘った。アユミは着やせするタイプのようで、服を脱いだその体はなんら問題のない造形をしていた。それまでずっと互いに手をからませていたせいか、僕たちの心と体はもうすでに十分に潤っていた。僕とアユミはまるで手のひらを重ねるように自然に体を重ねていった。ふと妻と若い男とのビデオに映った映像が頭をよぎり、僕はアユミの無防備な体に、体の底から湧き上がる欲望とも怒りともつかぬ昂まりを思い切りぶつけた。アユミの体は苦悶しながら溶け出していき、僕の全てを包み込むと鋭く煌めきながら夜空の果てに流れ去っていった。
僕がアユミから体を離すと、アユミはそのままベッドでシーツを身にまとい嗚咽をあげた。どうしたの? と僕が聞くと、
「――わたし、妊娠してるんです。つきあってる人がいて――」と涙声で言った。
そのとき、電話が鳴った。アユミを振り返り、いぶかしがりながら電話に出る。受話器の向こうからは闇の中をさまようような頼りなげな妻の声が聞こえてきた。
「今どこにいるの? 誰かと一緒なの? 早く帰ってきて――」
コメント
_ 儚い預言者 ― 2009年08月10日 17時59分00秒
_ くれび ― 2009年08月12日 22時05分10秒
預言者さま、読んでいただいてありがとうございます。
これは『デカローグ』の中のあるエピソードと、最近身近な人に起きた出来事が動機となって書きました。永遠に続いていく原始と社会のアユミの中で、それでも小さく息を吐くことはできました。
これは『デカローグ』の中のあるエピソードと、最近身近な人に起きた出来事が動機となって書きました。永遠に続いていく原始と社会のアユミの中で、それでも小さく息を吐くことはできました。
_ ヴァッキーノ ― 2009年08月22日 13時12分25秒
主題のあるものが書けるってのは、うらやましい限りなんです。
キューブリック監督は、いろんなジャンルの映画を撮ってるのに
主題は一貫していたんじゃないかって思うんです。
つまり、コミュニケーションの不在についての映画です。
キェシロフスキ監督は、断片的な運命と偶然の物語。
リンチ監督は、ノイズ的な不条理。
くれびさんは・・・・・・。
いつもながら、テーマがいいですね。
覗き見ってのがいいです。
産婦人科の先生なんかの診察も、結局は覗きですもん(笑)
「うしろめたさ」ってのもくれびさんの主題のひとつなのかもしれませんね。
キューブリック監督は、いろんなジャンルの映画を撮ってるのに
主題は一貫していたんじゃないかって思うんです。
つまり、コミュニケーションの不在についての映画です。
キェシロフスキ監督は、断片的な運命と偶然の物語。
リンチ監督は、ノイズ的な不条理。
くれびさんは・・・・・・。
いつもながら、テーマがいいですね。
覗き見ってのがいいです。
産婦人科の先生なんかの診察も、結局は覗きですもん(笑)
「うしろめたさ」ってのもくれびさんの主題のひとつなのかもしれませんね。
_ くれび ― 2009年08月23日 21時58分43秒
ヴァッキーノ さん、ありがとうございます。
キューブリックにしろキェシロフスキにしろリンチにしろ、共感できる主題というのはそのまま私たちの主題でもあると思うんですよね。
最近キューブリックのDVDを新たに三枚買い足してまた見直してました。久し振りに見た『アイズ・ワイド・シャット』の尋常じゃない美しさったらもう…って感じですね。
キューブリックにしろキェシロフスキにしろリンチにしろ、共感できる主題というのはそのまま私たちの主題でもあると思うんですよね。
最近キューブリックのDVDを新たに三枚買い足してまた見直してました。久し振りに見た『アイズ・ワイド・シャット』の尋常じゃない美しさったらもう…って感じですね。
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続かせることの儚き夢は、その本分の輝きをいつも騙す。それは根本的に一対であることの謂いだろうか。真実と幻の合間で、リアリティーは夢見ている。・・・全てを包み込むと鋭く煌めきながら夜空の果て・・・へと。