Phenomenon-72008年03月11日 15時11分30秒

 僕の前を車道側から一台の自転車が乗り上げてきたかと思うと、本でも閉じるようにバタンと唐突に倒れた。乗っていた人は歩道に投げ出さたままうずくまり、自転車はその傍らで足をもがれた昆虫みたいに蠢きながら転がっていた。
 僕はそんな状況に遭遇した時に誰もがやるように、慌てて駆け寄ると倒れた人の肩に手をやりながら「大丈夫ですか?」と顔を覗き込んだ。その人は五十歳くらいのおばさんで見る限り特に大きな怪我はないようだったが、ショックですぐに返事ができないようだった。地面に倒れているおばさんを反対側から見ている僕には、その蒼白な顔がまるでソラマメのように見えた。
 僕は車道にはみ出して倒れている自転車を起こし、歩道でスタンドを立てた。そして自転車が吐き出したままの買い物袋を二つ拾い上げ、前のカゴの中にバランスよく戻した。
 そうやって僕が自転車と買い物の安全を確保しているうちに、おばさんはううん、と小さく呻きながらゆっくりと体を起こした。僕がおばさんのお腹のあたりに転がっていた眼鏡を拾い上げて渡すと、眼鏡はスッとおばさんの顔に吸い付くように元の場所に収まった。おばさんが眼鏡をかけると何故かおばさんの顔の輪郭が急にシャープになり、ぐっと生気が増したように見えた。
 眼鏡の奥のおばさんの視線は、目の前の僕の顔ではなくその遥か上後方で焦点を結ぼうとしていた。しばらくすると彷徨っていたおばさんの目はぴたりと止まり、見る見るうちにその顔は深い絶望の色に覆われていった。



 妻はダイニングテーブルでさやえんどうのスジを取っていた。小さなザルに入ったさやえんどうのスジを一つ一つ取り、取り終わったさやえんどうを並べて置かれた小さなボウルに入れていく。
「もうそろそろ桜が見頃ね。見に行きたいわ」ぷちっとへたを取る。
「紅葉は毎年僕がプランを立てて行ってるだろ。桜は君の担当の筈だよ」
「あら、どこの桜もきれいだからなかなか決められないのよ。でも今年こそは見に行きたいからちょっと頑張るわね」
 さやえんどうは夕食にエビとマヨネーズで和えられて出てきた。味はよかったが口の中にいつまでもスジが残って噛み切れなかった。妻を見ると平気な顔でむしゃむしゃと食べていた。
 ベッドに入っても喉の奥にまとわりついているさやえんどうのスジがもぞもぞと這い上がってくるような感触があってなかなか寝付けなかった。隣にいる妻も寝てはいない様子だったが、レースのカーテン越しに差し込む月明かりに顔を向けたまま黙っていた。



 僕は買ったばかりのロードレーサーに乗って、家から五十キロ離れた小学校に辿り着いた。確かにそこは僕の母校ではあったが、別にそれを目指して走っていたわけではなかった。ただ何となく理由もなしにその方角に走り出して、気がつけば懐かしいグラウンドの前に立っていた。
 グラウンドの周りには校舎側を除いてぐるりと桜が咲いていて、夕闇迫るグラウンドをほんのりとピンク色に染めていた。
 僕は自転車に乗ったままグラウンドの中に入って行った。そしてゆっくりと大きなカーブを描きながらぐるぐるとグラウンドを周回した。すると桜が一斉に花びらを撒き散らし始め、自転車をこぐ僕に大粒のシャワーとなって降り注いだ。水玉模様から次第にピンク一色に染まったカーテンに包まれ、もう僕はどこをどう走っているのかわからなくなった。グラウンドも空も一面がピンク色になり、僕も自転車もすべてがピンク色になった。
 突然自転車のタイヤがするりとスリップし、僕は大きくダイブした。体は空気のように軽くふわりとしたピンク色の地面に投げ出された。すると桜の花びらはぴたりと舞うのを止め、ピンク色をかき分けるように徐々に黒い空が現れた。地面も桜の木も自転車も僕もすべてが黒くなった。僕は空を見上げて何かを呟いた。そこには尻の穴のように大きく鈍く光る無数の星が蠢くように瞬いていた。

飛梅2008年03月15日 11時22分40秒

 電車を降りて運賃を精算してから改札を出る。駅前のロータリーから商店街のアーケードになっている長い参道を抜けて、門をくぐり脇の細道を通って境内に入った。
 やはりここでもあちらこちらで梅がほころび、清らかな香りを辺りに振りまいている。振り返るとそこには彼女が柔らかな笑顔でこちらを向いて立っていた。
 やあ、と声をかける。彼女は黙ったまま小さく頷く。梅の花のように静かに薫りながら決して喋ることはない。
 昔二人で太宰府を訪れた時、彼女は梅の木の前で「もし私が死んでも、この梅が咲く頃には必ず戻ってくるわ」と言った。やがて彼女は白い面影となり、僕は転勤を繰り返す生活の中で、毎年この季節になると近くの天神様を訪ねるようになった。
 彼女と会うのは二年ぶりだ。去年は仕事が忙しくて時間が取れなかった。彼女は最初その事を責めるように悪戯っぽい顔で僕を見た。
 ――でも来てくれたのね。とても嬉しいわ――
 ――うん、今度はこっちに転勤になったんだ――
 ――そうね、お仕事大変じゃない? 私が言うのも変だけど体にだけは気を付けてね――
 ――そうだね、大丈夫だよ。体には気を使ってるし仕事も順調だ――
 ――やっぱりそろそろ誰かと一緒になった方がいいんじゃない? 私の事だったら気にしないで。覚悟は出来てるから――
 境内を一陣の風が吹き抜け、彼女の姿をかき消した。
 それから僕は社務所でおみくじを引いた。ふとあの時彼女が引いたおみくじには何と書いてあったのだろうと思った。そして帰りの電車に揺られながら、彼女の変わらぬ想いとそれを引き受けていくということについて考えた。
 電車を降りると改札を出て夕暮れの家路を急いだ。緩やかな坂を上り切った所で我が家が見えてくる。玄関のドアを開けると犬が飛んできて僕の足に纏わりつき、「お帰りなさい。遅かったのね」と台所に立つ妻が顔も見せずに言った。
 どんな形にせよ、何処にでも誰にでもそれぞれの春はやってくるのだ。



http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2008/03/17/2767545

パンと娘2008年03月28日 12時44分06秒

 男は買い物袋を両手にぶら下げたまま、商店街の出口で信号待ちをしていた。歳はまだ三十代だったはずだが、髪には白いものが混じり、不健康に黒ずんだ顔から首にかけては、まるでノミで切り込んだように無数の皺が深く刻まれていた。一度見ただけではまず覚えていられないような印象の乏しい服を着て、これまた印象の乏しいズボンを穿いていた。唯一男の印象的な部分と言えば、その体のバランスだろうか。デフォルメされた漫画みたいに体に比べてかなり頭が大きく、逆に足が華奢な女の子ほどもないくらい極端に小さいのだ。信号が変わって人が流れ出すと、男は周りにいる人が不安そうな目で見守る中を前につんのめりそうになりながら歩きだした。それでも男はまるで松葉杖を使っている人みたいに、さも当然と言わんばかりに涼しい顔をしていた。
 男が家に帰ると、狭い玄関には巨大なクリーム色のスニーカーが乱雑に脱ぎ散らかされて、平和祈念のモニュメントみたいに意味もなく転がっていた。見たところサイズは三十センチといったところか。男のものでないのは明らかだ。
「――パン買ってきたぁ? パン」
 男がダイニングテーブルに両手の買い物袋をドサッと降ろすと、奥の部屋から娘が飛び出してきて買い物袋を漁った。そして片方の袋からスライスされていない二斤分の食パンの塊を取り出すと頭の上に掲げて、そこら中を小躍りして回った。
「止めなさい。晩ご飯まで待つんだよ」
 男は娘の頭の上から食パンをひょいと取り上げ、もとの袋に戻してから簡単に手の届かない水屋の上に置いた。娘は軽く口を尖らせて寂しそうな顔をしたが、すぐに吹っ切れたように走り出して奥の部屋に戻っていった。
 娘は少し太ってはいるがとてもチャーミングな顔をしていた。娘の手は(正確に言えば手首から先は)とても小さくて、赤ん坊のそれを一回り大きくしたくらいしかなかったが、その代わり父親と違って足がやたらと大きかった。玄関に脱ぎ散らかされていたスニーカーは娘のものだったということだ。
 娘は夕食の時間まで一人で人形と遊んだり、絵を描いたりして過ごした。人形の手の指は全て切り落とされていて、娘は丸くなった人形の手のひらをつかんで挨拶をした。――こんにちは――ごきげんよう。そして黒と黄色のクレパスだけを使って、幾つもの花の絵を描いた。
 男は居間でテレビをつけて横になり、見るともなしに野球中継を見ていた。重い頭を支えるのが辛いのかしょっちゅうもぞもぞと体の向きを変えながら。そしていつものように一体いつから娘はパンしか食べなくなったのかを思い出そうとした。この家から妻が居なくなってからか、それともいつかきつく折檻した日からだったか。ひょっとして娘は生まれてこの方パンしか食べてこなかったんじゃないのか? いいや、そんな筈はない。結局いつも通りの堂々巡りで大きな頭が痛くなり、考えるのを止めた。
 夕食のテーブルにはスーパーで買ってきたパックの助六寿司と缶チュウハイ、娘の前には先ほどの食パンを半分に切っただけの一斤分の塊の乗った皿がコップ一杯の牛乳と一緒に置かれていた。
 娘はその小さい手でパンを千切りながら次々と無造作に口に放り込んでいく。一言も喋らず、牛乳に手を付けることもなく、そのまま一斤分を食べきると、最後に一気に牛乳を飲み干した。お代わりした牛乳は飲みきれずに少し残し、ごちそうさまも言わずに娘は部屋に戻っていった。
 男は最後の巻き寿司を酎ハイで流し込むと、ふうとため息をつき、小さな足でまたつまずきながら踏み出さなければならない明日のことを思った。