飛梅2008年03月15日 11時22分40秒

 電車を降りて運賃を精算してから改札を出る。駅前のロータリーから商店街のアーケードになっている長い参道を抜けて、門をくぐり脇の細道を通って境内に入った。
 やはりここでもあちらこちらで梅がほころび、清らかな香りを辺りに振りまいている。振り返るとそこには彼女が柔らかな笑顔でこちらを向いて立っていた。
 やあ、と声をかける。彼女は黙ったまま小さく頷く。梅の花のように静かに薫りながら決して喋ることはない。
 昔二人で太宰府を訪れた時、彼女は梅の木の前で「もし私が死んでも、この梅が咲く頃には必ず戻ってくるわ」と言った。やがて彼女は白い面影となり、僕は転勤を繰り返す生活の中で、毎年この季節になると近くの天神様を訪ねるようになった。
 彼女と会うのは二年ぶりだ。去年は仕事が忙しくて時間が取れなかった。彼女は最初その事を責めるように悪戯っぽい顔で僕を見た。
 ――でも来てくれたのね。とても嬉しいわ――
 ――うん、今度はこっちに転勤になったんだ――
 ――そうね、お仕事大変じゃない? 私が言うのも変だけど体にだけは気を付けてね――
 ――そうだね、大丈夫だよ。体には気を使ってるし仕事も順調だ――
 ――やっぱりそろそろ誰かと一緒になった方がいいんじゃない? 私の事だったら気にしないで。覚悟は出来てるから――
 境内を一陣の風が吹き抜け、彼女の姿をかき消した。
 それから僕は社務所でおみくじを引いた。ふとあの時彼女が引いたおみくじには何と書いてあったのだろうと思った。そして帰りの電車に揺られながら、彼女の変わらぬ想いとそれを引き受けていくということについて考えた。
 電車を降りると改札を出て夕暮れの家路を急いだ。緩やかな坂を上り切った所で我が家が見えてくる。玄関のドアを開けると犬が飛んできて僕の足に纏わりつき、「お帰りなさい。遅かったのね」と台所に立つ妻が顔も見せずに言った。
 どんな形にせよ、何処にでも誰にでもそれぞれの春はやってくるのだ。



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