ほおずき2007年09月19日 17時19分32秒

 暑さのわりに湿気が少ないせいか、透き通るような直截な日差しを浴びて、僕は目を細めながら空を見上げた。高く青い空に浮かぶ薄っすらとした雲は、人の心のようにいつもそこにあるようで実は留まることのないひどく儚げなものに映った。
 田舎の空気は、あっという間に僕を数十年前に引き戻してしまう。風や土の匂いが体中に染み渡り、その一部となって溶け出してしまいそうになる。好むと好まざるとに関わらず、今でも僕はこの風景の一部として存在していた。
 車を降りると、懐かしい家並みが目に入った。目の前に建っているのは父親の実家である。やけにディテールがクリアなのは、昨夜、父親が撮ったというただ実家の周りの風景を収めただけのビデオを延々と見せられたせいだろうか。
 盆に親子四人揃って墓参りに来るのは何年、いや何十年ぶりだろう。田舎で働く弟はともかく、僕があれこれと理由を付けてほとんど帰ることがなかったせいだ。
 その間この家にも随分いろいろなことがあったようだ。早くに祖父母を亡くしてから長男である伯父が長らく家を取り仕切っていたが、それからまるで何かに呪われたかのように家族は次々と不思議な死に方をしていた。酒が一滴も飲めないのに泥酔して車を運転して事故死したものもいれば、突然おかしなことを口走るようになり部屋に引きこもって出てこなくなり衰弱死してしまったものもいた。伯父自身も極めて悪性のガンに冒され、全身を切り刻まれた挙句死んでしまい、最近では伯父の末っ子が納屋の中で車の排気ガスを吸い込んで自殺したばかりだった。結局家に残ったのは伯父の妻である伯母だけだったが、伯母もこのところ体を悪くしていて、今では瑞希という次女の嫁ぎ先とこの家を行ったり来たりしているらしかった。
 僕たちが着いた時には、盆ということもあってか伯母と瑞希が家にいた。伯母はエアコンの効いた離れのベッドで休んでいたが、僕たちを迎えるために起き上がってベッドに腰掛けていた。覚えている限りの伯母の様子からすると今は歳をとったのはもちろんだとしても、随分と小さくなってしまったような気がした。伯母は一体どんな病気なのか僕にはよくわからなかったが、一見元気そうなその姿には何かくすんだ影のようなものが感じられた。
 瑞希はそんな伯母に寄り添い、静かに微笑んでいた。僕が瑞希に会うのは三十年ぶりくらいになるだろうか。その頃のことが蘇ってきた。

                    *

 当時学生だった僕は受験のため京都に宿を取る必要があった。両親の計らいで、当時京都の郵便局に勤めていた瑞希の夫の家にしばらくの間世話になることになった。瑞希はまだ二十代で、郵便局の職員住宅に夫と小さな女の子と三人暮らしだった。その時瑞希の夫には初めて会ったが、まるで熊のような風貌で少しがっかりした。瑞希ともゆっくり話をするのは多分その時が初めてだったと思う。
 瑞希の家族は僕を暖かく迎えてくれて、とても居心地が良かった。僕が無事に受験を済ませた後、一家で僕を遊びに連れて行ってくれたりした。
 もっとゆっくりしていけばいいと瑞希は言ってくれたが、そういうわけにもいかない。そして明日は帰ろうかという日の夕方だった。僕が帰ってくると家には瑞希一人だけしかおらず、見ると何故か彼女は泣き腫らした目をしていた。どうしたの? と訊いても首を振るだけだった。僕は瑞希をそっとしておいて、部屋に戻り買ってきた本を開いた。隣の部屋からは瑞希の鼻をすする音が聞こえてきていたが、やがて聞こえなくなった。僕がそっと様子を見に行くと瑞希は倒れるように横になり眠っていた。僕は自分の部屋にあった毛布を持ってきて瑞希にかけようとしてひざまずいた。しかし瑞希のブラウスの胸元からはひしゃげた胸の膨らみがのぞき、しどけなく開いたスカートの裾からはすべらかな素足の太股が伸びていた。
 僕は毛布を持ったまましばらく動けなくなった。これほどまでに無防備な女を目の前にした十代の男としては当然のことだったと思う。しかし瑞希は僕のいとこなのだという一点だけに必死にすがり、何とか自分を抑えることができた。僕は毛布をそっと瑞希にかけるとまた部屋に戻った。もう一度本を開いてはみたものの、まったく頭には入ってこなかった。
 その夜、僕は悶々として寝付けず、仕方なく静かにマスターベーションをした。何も考えていなかったので始末に困り、まだ履いていない靴下の中に放出した。
 翌朝、新しい靴下を履くことはできなかったが、僕は世話になった瑞希の家を後にした。瑞希は目をしょぼしょぼさせながら僕を駅まで見送ってくれた。

                    *

 今目の前に立つ瑞希は、もうすっかり立派な中年のおばさんになっていた。確かに失ってしまったものもあるが、アクの抜けきった静かな佇まいをしていた。あの時の一家は今どうしているのだろうとふと考えた。
 僕たちは伯母とひとしきり世間話をしてから、裏手にある墓地に参ることにした。急斜面の坂を上ると、大小二十ほどの墓が並んでいる懐かしい墓地だった。代の新しい幾つかの墓は新調されたばかりで戒名板もしつらえてあった。
 墓地の隣には伯母と瑞希が植えたのだという何本かのほおずきが生っていて、たわわに朱と緑の房をつけていた。
 僕たちは帰ろうとして伯母に挨拶してから車に向かおうとすると、瑞希が見送りに着いてきてくれた。僕はすっと瑞希に近づくと、僕なりに万感の思いを込めて
「ご無沙汰してます」
 と言うと、瑞希は
「あら、ご苦労様でした」
 と、何の屈託も引っかかりもない調子で言った。
 車の中から瑞希に軽く会釈しながら、僕は何かやり切れない気持ちになった。


「あら、懐かしいわねぇ、ほおずきなんて」
 妻は嬉しそうにいそいそと花瓶を出してきて、僕が田舎から持ち帰ったほおずきを生けた。
 僕はほおずきの実を一つ口に頬張ると、頼りなげな音を鳴らしながら遠いあの頃を思い出していた。