カート・コバーンはジャック・パーセルを履いたまま死んだか?2008年04月01日 22時48分59秒

 1986年の春、僕は新しい学生生活を送るためにアパートを借りて一人暮らしを始めた。親に金銭的な負担をあまりかけたくなくて、すぐに近所でアルバイトを探すことにした。
 最初は同じアパートに住む同級生に誘われて、鶏肉の卸・小売りをやっている店で白ずくめのおばさんたちに混じって包丁を使って鶏を捌く仕事に就いたが、どうにも気分が悪くなって手も切り傷だらけになってしまい、すぐに辞めてしまった。続けていたら恐らく一生鶏は食べられなくなったかも知れない。
 結局学校の近くのファースト・フード店で働くことになり、僕は週に4日フライヤーでポテトを揚げるようになった。
 その年の秋、僕はユカという女の子と付き合うようになった。ボブの髪には軽くウェーブがかかっていて、目鼻立ちがはっきりしている。大きめのパーツが小さな顔の中にバランスよく収まり、右の顎の下にある華奢な首筋に浮かぶホクロがとてもチャーミングだった。
 ユカは僕と同じ店のカウンターで働いていた。それまでほとんど話をしたことはなかったが、僕の目の前で床に落ちていたフレンチフライで足を滑らせて驚くほど派手にひっくり返った日の夜、僕たちは同じベッドの中で一緒に眠った。それでもまだあまり話はしなかった。ユカが僕より1つ年上だったことも随分後になって知ってびっくりしたくらいだ。
 ――フライドポテトって人生に似ているわ――
 ――どういうこと?――
 ――あなた、ポテトを揚げることの意味って考えたことある?――
 ――‘ポテトを揚げることの意味’?――
 ――それはね、人の心を満たすということよ――
 ――‘心を満たす’?――
 ――そうよ。まあ人は心だけで生きている訳じゃないけどね――
 ある日ユカは僕がボロボロのスニーカーを履いているのを見ると、黙って僕の手を引いて靴屋に入り、26cmのジャック・パーセルを買ってくれた。古いスニーカーはその場でゴミ箱に捨てられてしまった。僕は夜目にも白く光るジャック・パーセルを汚さないように気を付けながら恐る恐る歩いた。その日は僕の誕生日だった。


 1994年の春、下駄箱の奥から薄汚れてペチャンコになった26cmのジャック・パーセルが出てきた。ユカはあれから暫くして突然アルバイトを辞めてしまった。店長の子供を身ごもったらしい、などとまことしやかな噂も流れた。もちろん(もしユカの妊娠が事実だったとしても)僕の子供である可能性は0パーセントだった。僕とユカとの関係に於いて、それはあり得ないことだったからだ。そして僕は再びユカと会うことはなかった。
 同じ頃、僕の誕生日に僕と同い年のカート・コバーンはショットガンで自分の頭を吹っ飛ばした。その時ジャック・パーセルはじっと彼の次第に冷たくなっていっただろう足を包んでいたのだろうか?

キャビンアテンダントの恋~春の夢~2008年04月04日 16時33分20秒

 彼は北に向かう飛行機に乗っていた。冬に訪れたその地は深い雪に覆われた物静かな町だった。町は冬の間その雪の底に閉じ込めていた人々の想いを今ではすっかり忘れてしまったかのように、ただ静かに暖かな春を待っていた。雲海に反射する柔らかな光が濁った窓から差し込んで彼の頬をよぎっていった。
 彼女は穏やかな笑顔で乗客を見渡す。酸素マスクに続いて救命胴衣の使い方を説明している。乗客は誰も彼女を見ていない。ただ彼だけがじっと彼女を見ていた。彼女は彼を見ながら救命胴衣のパイプを少し恥ずかしそうに咥える。微かに紅潮した顔は彼以外の誰にも見られることなく説明は終わった。
 彼女は腰を屈め小首を傾げながら彼の耳元で飲み物を尋ねる。彼は「ワインを」と彼女の耳に応える。紺色の制服に包まれた彼女の張り詰めた腰が、微かな香りを残して彼の頬を掠めていった。
 彼がトイレから出ると目の前に彼女が立っていた。狭い通路を彼女と向き合わせになって通り抜ける。彼の腰は彼女の腰に、彼の胸は彼女の胸にぴたりと密着しながら擦れあう。彼女の白いブラウスの胸元からは赤いバラの花びらがゆらゆらと立ち上り、彼の鼻腔をくすぐった。彼の眼差しは彼女の大きな瞳を捉え、鼻はおろか唇さえも触れあわんばかりだった。彼は彼女の腰に手をやり、自身が舞い上がってしまわないように押さえつけた。彼女も同じように手を彼の肩に置いた。彼の襟元のバッジにほつれた彼女の髪が引っかかり、離れがたい気持ちを具現する。彼は彼女の髪の香りを胸一杯に吸い込みながら、もつれたバッジと髪の毛を解いていく。彼女は彼の腰に手を回し力を込めて密着した。彼は外したルーニー・テューンズのバッジを数回手の平で弄んでから、彼女の手を取ってその中に握らせた。彼女の手の上でツイーティが微笑んでいた。彼は彼女の耳元にもう一度唇を近づけると、「コンソメスープを」と言って席に戻っていった。
 彼女はスープを彼の席まで運んでくると、テーブルの上にまず二つ折りにした小さな紙片を置き、その上にスープのカップを置いた。彼女はやはり少し首を傾げて彼の様子をしばらく観察した後、踵を返し元来た方向へ腰をゆっくりと大きく振りながら歩いていった。
 彼はタラップを降りながらポケットの紙片を取り出して中を確認していた。すると春の嵐が突風となって彼の手から紙片を奪い取り、どこかへ運び去っていった。彼はタラップを降りきったところで振り返り、彼女の笑顔に微笑みを返してから、そのまま到着ゲートの方に歩いていった。
 こちらではそろそろ梅も終わり、桜の季節になる。桃の花が咲いて山の麓が濃いピンクで埋め尽くされる頃になったら、彼はもう一度飛行機に乗ることになるだろう。

二十回2008年04月11日 22時39分13秒

 彼は五分遅れで出社すると、上司に「雪で電車が遅れて」と報告した。上司はどうでもよさそうに、ああ、と言った。彼は席について仕事に取りかかる。しかし急いでやらねばならぬ仕事など何もないことに気がついた。さて、今日はどうやって過ごしたものか。ぼんやりとコンピュータのモニタを眺める。少し前までは掲示板やチャットで時間が潰せたのだが、会社のセキュリティ対策が進んで全くアクセスできなくなってしまった。彼は仕方なくさして伸びてもいない手の爪をゆっくりと時間をかけて切ってから、丁寧にヤスリをかけた。それから机の引き出しを開けてダイレクト・メールの整理を始めた。一通ずつしげしげと差出人を確認しては全てをゴミ箱に放り込む。何とかその日はそれで過ごすことができた。
 彼は家に帰ると母親と二人で夕食の準備をして一緒に食べた。父親は遠洋でのマグロ漁に出ていて半年くらい家を空けることはざらだった。母親は体が弱く病気がちで時々その都度違う病名で入院することもあったが、彼はきちんと母親の面倒を見ていた。
 彼は夕食が終わると自分の部屋に戻り、風呂が沸くまでの間マスターベーションをした。一回終わっても萎えることはなく、続けて五回くらいするのが彼の日課だった。ゴミ箱もそのほとんどがティッシュの塊で埋まった。六畳の部屋には何とも言えない臭いがたちこめ、彼は面倒臭そうに立ち上がると窓を開けて空気を入れ換えた。
 風呂からあがった後も彼はマスターベーションをした。やはり続けて五回くらい。彼は窓を開け放しにしたまま歯を磨いた。母親はもう寝ていた。彼はゴミ箱のゴミを捨ててから窓を閉めてベッドに横になった。
 彼は寝るまでの短い時間、考える。毎日マスターベーションをしている時間を何かもっと有意義なことに、例えば自分自身を‘向上’させるようなことのために使えないのだろうか。何故毎日こんな非生産的なことをして無駄に時間を過ごしているのだろう。しかしいつも答えより先に暖かな闇が訪れ彼を飲み込んでいった。
 忘年会の席で、隣に座った先輩にしつこく勧められて随分酔っぱらってしまった。元々アルコールはあまり強くない。つい口が滑って、高校生の頃は毎日二十回くらいマスターベーションをしていた、と漏らしてしまった。女性社員にはひかれたが、その場は大爆笑に包まれた。その日から彼は「二十回」と呼ばれるようになった。
 二十回と呼ばれるようになったこと以外、彼の周りには特に何の変化もなかった。入社して三年になるが、元々上司や同僚からは鬱陶しがられていたし、女性社員には気味悪がられていた。仕事が与えられれば彼なりにきちんとこなすし、女性に話しかけられればはにかみながらも爽やかに返事ができるはずなのに、彼にはほとんどそのチャンスが与えられなかった。
 ある日の朝、彼は会社に現れなかった。その頃彼は電車で痴漢を働いたとして公安に身柄を拘束されていた。恐らくは彼の全てとは全く無関係に。それは彼にとっては突然降ってわいた事故のように。

赤いベリーのタルト2008年04月14日 13時49分52秒

 彼女の目の前にはまだ手が付けられていない赤いベリーのタルトと一杯のオーガニックブレンドコーヒーが置かれていた。そしてその向こうにはミウが休みにもかかわらず制服姿で座っていた。その青ざめた素足にはサンダルが辛うじてひっかかっていた。
「で、あなたが殺したの?」
 ミウは首を横に振った。
「わかんないよ。だってあいつと母親の現場を目撃した時、意識がすうっと遠くなって後のことは全然覚えてないんだ」
「それで気がついたら自分のベッドに寝ていたんだよね」
 ミウは首を縦に振った。
「だけどどういうわけか、わたし裸だったの。‘一糸まとわず’っていうやつ? それにうなされて目を覚ますとなんだか体中が火照ってて、粘り気のある汗がべっとりまとわりついてるの」まだ火照りの余韻が浮かんでいるような顔でミウは言った。
「それで?」
「それで、ぼうっとしながら起き上がって手近にあった制服を着て、母親の寝室を覗いてみたら母親とあいつがベッドの上で血だらけになってたの。もちろん全裸で二人が折り重なってたみたいだけど、でこぼこした真っ赤な山みたいだったわ。ちょうどそんな感じ」とミウは彼女の前の赤いベリーのタルトを指さした。
「で、わたしに電話してきた、と」
「そうなの。もうわたしパニックになっちゃって。ねえ、わたしどうしたら……」
「まずは彼氏とお母さんの関係だけど、何も気付かなかったの?」
「うん、そういえばデートしても何かと理由を付けちゃわたしの家に来たがってたわね。でもお母さんと特に親しそうに話をしてたわけでもないし、お母さんも特にあいつのことを尋ねたりしなかったわよ。今思えばむしろお互い避けてたようなところもあったわね」
「ふうん、怪しいといえば怪しいわね」
 彼女はコーヒーを一口すすり、縁に残った唇の跡を親指の腹でぬぐった。
「お願いよ。こんなこと相談できるのはあなたしかいないんだから。何とかして」
 彼女はまるでミウの言葉が聞こえていないかのように、赤いベリーのタルトにフォークを入れて潰すようにして混ぜてから、その赤い塊を一口すくってゆっくりと口に運んだ。

僕がレイモンド・カーヴァーを読んでいる場所2008年04月25日 20時23分33秒

 思いがけず仕事が早く片付き、僕は予定していた便が出発する二時間前には既に空港に着いてしまっていた。なにぶん田舎のことなので空港の周りには(多分何かの果物を作っている)畑か、(一体その場所に何が出来るのが相応しいのかよくわからない)整地された更地しかなかった。
 僕はレンタカーと航空会社のカウンターに挟まれた通路を抜けてエスカレーターに乗り、二階のロビーに上がった。ロビーには土産物屋とレストランが一つずつあり、それ以外には多目的ルームがあるだけだった。土産物屋が申し訳程度の店構えと品揃えであるのに対し、レストランはサンプルの並んだウィンドウも入口の左右それぞれ十メートルくらいに渡って広がり、店内は外からでは全て見渡せないほどだった。出発までの時間を過ごす場所として、僕は迷わずレストランに入った。
 レストランの中はそこそこの企業の社員食堂くらいの広さがあり、その床は数え切れないほどのテーブルで埋め尽くされていた。更に驚くことにはその広い店内に客は‘ただの一人も’いなかった。静かな海のようなその店内に僕はそっと入っていき、五十メートルくらい歩いて、一番端の窓際の席に座った。
 白いテーブルの上にはナプキンスタンドと塩、コショウ、爪楊枝入れが乗ったトレーとメニュー立て、灰皿は無く(入る時には気が付かなかったが店内は禁煙のようだ)、ペリエの空き瓶には名前のわからない白い花が一輪挿してあった。
 遙か彼方からウェートレスらしき人物がこちらに向かって歩いてきていた。彼女は白襟の服に白エプロンというクラシカルないかにもウェートレスといったユニフォームを着ていて、頭にはティアラのような帽子を乗せていた。上向きに立てた右手の三本指で水の入ったグラスが乗ったお盆を捧げ、スカートの左右に張り出したお尻をリズミカルに振っていた。顔が判別できるほどの距離に近づいてきた彼女は年の頃三十といったところか。しかし靴を履いて硬い床を歩いているはずの彼女の足音は、僕の目の前一メートルまで近づいてもまるで雲の上を歩いているように全く聞こえなかった。
 水の入ったグラスが目の前に置かれ、僕はある種の差し迫った状況に置かれていることに気が付いて、慌ててメニューを開いた。昼食をとったばかりだったので、分厚いメニューの中からエスプレッソとアメリカンコーヒーしか選択肢がないコーヒーメニューの内、それでも少し迷ってからアメリカンコーヒーを、と頼んだ。
 ウェートレスは「かしこまりました」と帽子を見せびらかすようにうやうやしく一礼してから、くるりと振り向くと来た時と同じように足音を立てずに戻っていった。
 僕は鞄の中から読みかけのレイモンド・カーヴァーを取り出し、ページを開いた。春の暖かな日差しが窓を通して射し込んできて、白いテーブルに反射する。レストランの中は大海原をクルーズする観光船のように煌めく光に満ちていた。僕は一人で、ページを繰り文字を目で追った。
 一編読み終わったところで辺りに目をやると、入口からは客が続々と入ってきていて広い店内の席がほとんど埋まっていた。テーブルの上にはいつの間にかアメリカンコーヒーが運ばれてきていた。僕は瀟洒な白地に青い模様の入ったカップに砂糖とミルクをたっぷり入れて、少しぬるくなったコーヒーを半分ほど飲んだ。
 近くのテーブルには四人連れが座り、ラーメンの丼のような器を前に大きな声で話をしていた。その中の初老の男が、妻が死んだのに遺産が一円も入らなかったとか何とか愚痴をこぼし、他の人間がそれに感心したように相づちを打ったり、慰めたりしていた。別のテーブルではボロボロの作業服に身を包み、帽子を被って日に焼けた顔に白い無精髭を生やした男がざるそばをすすっていた。さらに別のテーブルには小さな子供と若い母親が座り、子供の口の回りに付いたパフェのクリームやらチョコレートやらを母親が拭ってやっていた。子供はパフェを食べたいので拭かれるのを嫌がっていたが、母親は五秒たりとも口の回りが汚れるのを許さなかった。
 僕が乗るはずの飛行機は到着が遅れていて(必然的に)出発が遅れる旨のアナウンスがあった。
 僕は本に目を戻し、更にもう一編を読み切った。すると店内は僕が入ってきた時と同じように全く客がいない静かな海に戻っていた。さっきまで見ていた光景は夢の中のことのように思えてくるほど、今では実感がなかった。ふとカーヴァーは五十歳で死んだことを思い出した。肺ガンだった。そして僕はそろそろその時の彼と同じ年齢になろうとしていた。
 僕は残りのコーヒーを飲み干し、伝票をつかむとまた五十メートル歩いて入口の横にあるレジに向かった。
 飛行機は定刻から十分遅れで出発した。飛行機が離陸した瞬間、ふわりと体が浮き上がるのと同時に僕の座った翼近くの席の窓からふいに強い光が射し込んできて機内に乱反射した。くらくらしている僕を乗せて、飛行機は上昇を続けていた。