僕がレイモンド・カーヴァーを読んでいる場所2008年04月25日 20時23分33秒

 思いがけず仕事が早く片付き、僕は予定していた便が出発する二時間前には既に空港に着いてしまっていた。なにぶん田舎のことなので空港の周りには(多分何かの果物を作っている)畑か、(一体その場所に何が出来るのが相応しいのかよくわからない)整地された更地しかなかった。
 僕はレンタカーと航空会社のカウンターに挟まれた通路を抜けてエスカレーターに乗り、二階のロビーに上がった。ロビーには土産物屋とレストランが一つずつあり、それ以外には多目的ルームがあるだけだった。土産物屋が申し訳程度の店構えと品揃えであるのに対し、レストランはサンプルの並んだウィンドウも入口の左右それぞれ十メートルくらいに渡って広がり、店内は外からでは全て見渡せないほどだった。出発までの時間を過ごす場所として、僕は迷わずレストランに入った。
 レストランの中はそこそこの企業の社員食堂くらいの広さがあり、その床は数え切れないほどのテーブルで埋め尽くされていた。更に驚くことにはその広い店内に客は‘ただの一人も’いなかった。静かな海のようなその店内に僕はそっと入っていき、五十メートルくらい歩いて、一番端の窓際の席に座った。
 白いテーブルの上にはナプキンスタンドと塩、コショウ、爪楊枝入れが乗ったトレーとメニュー立て、灰皿は無く(入る時には気が付かなかったが店内は禁煙のようだ)、ペリエの空き瓶には名前のわからない白い花が一輪挿してあった。
 遙か彼方からウェートレスらしき人物がこちらに向かって歩いてきていた。彼女は白襟の服に白エプロンというクラシカルないかにもウェートレスといったユニフォームを着ていて、頭にはティアラのような帽子を乗せていた。上向きに立てた右手の三本指で水の入ったグラスが乗ったお盆を捧げ、スカートの左右に張り出したお尻をリズミカルに振っていた。顔が判別できるほどの距離に近づいてきた彼女は年の頃三十といったところか。しかし靴を履いて硬い床を歩いているはずの彼女の足音は、僕の目の前一メートルまで近づいてもまるで雲の上を歩いているように全く聞こえなかった。
 水の入ったグラスが目の前に置かれ、僕はある種の差し迫った状況に置かれていることに気が付いて、慌ててメニューを開いた。昼食をとったばかりだったので、分厚いメニューの中からエスプレッソとアメリカンコーヒーしか選択肢がないコーヒーメニューの内、それでも少し迷ってからアメリカンコーヒーを、と頼んだ。
 ウェートレスは「かしこまりました」と帽子を見せびらかすようにうやうやしく一礼してから、くるりと振り向くと来た時と同じように足音を立てずに戻っていった。
 僕は鞄の中から読みかけのレイモンド・カーヴァーを取り出し、ページを開いた。春の暖かな日差しが窓を通して射し込んできて、白いテーブルに反射する。レストランの中は大海原をクルーズする観光船のように煌めく光に満ちていた。僕は一人で、ページを繰り文字を目で追った。
 一編読み終わったところで辺りに目をやると、入口からは客が続々と入ってきていて広い店内の席がほとんど埋まっていた。テーブルの上にはいつの間にかアメリカンコーヒーが運ばれてきていた。僕は瀟洒な白地に青い模様の入ったカップに砂糖とミルクをたっぷり入れて、少しぬるくなったコーヒーを半分ほど飲んだ。
 近くのテーブルには四人連れが座り、ラーメンの丼のような器を前に大きな声で話をしていた。その中の初老の男が、妻が死んだのに遺産が一円も入らなかったとか何とか愚痴をこぼし、他の人間がそれに感心したように相づちを打ったり、慰めたりしていた。別のテーブルではボロボロの作業服に身を包み、帽子を被って日に焼けた顔に白い無精髭を生やした男がざるそばをすすっていた。さらに別のテーブルには小さな子供と若い母親が座り、子供の口の回りに付いたパフェのクリームやらチョコレートやらを母親が拭ってやっていた。子供はパフェを食べたいので拭かれるのを嫌がっていたが、母親は五秒たりとも口の回りが汚れるのを許さなかった。
 僕が乗るはずの飛行機は到着が遅れていて(必然的に)出発が遅れる旨のアナウンスがあった。
 僕は本に目を戻し、更にもう一編を読み切った。すると店内は僕が入ってきた時と同じように全く客がいない静かな海に戻っていた。さっきまで見ていた光景は夢の中のことのように思えてくるほど、今では実感がなかった。ふとカーヴァーは五十歳で死んだことを思い出した。肺ガンだった。そして僕はそろそろその時の彼と同じ年齢になろうとしていた。
 僕は残りのコーヒーを飲み干し、伝票をつかむとまた五十メートル歩いて入口の横にあるレジに向かった。
 飛行機は定刻から十分遅れで出発した。飛行機が離陸した瞬間、ふわりと体が浮き上がるのと同時に僕の座った翼近くの席の窓からふいに強い光が射し込んできて機内に乱反射した。くらくらしている僕を乗せて、飛行機は上昇を続けていた。