つゆのあとさき ― 2009年07月09日 00時51分57秒
昨夜までの激しい雨がまるでよく思い出せない一夜の悪い夢だったかのようにカラリと晴れた今日の青空を、僕はベッドに寝転がったまま見上げていた。隣では昨夜は窓を打つ雨と風に怯えていたはずの悠が、軽い寝息を立てて安らかに眠っている。反対側を向いた悠の肩がゆっくりと上下に動き、そこから足にかけての精妙なラインを息づかせていた。僕は目だけでそのなだらかな丘陵の端から端までをたどり、その行方がはっきりしない爪先を想像したあたりで消息が途絶えてしまった目線を回収した。
休日の朝に動き出すにはまだ少し早い時間だったが、窓にぺったりと張り付いたような青空から降り注ぐあまりにも透明な光が僕の気持ちを逸らせた。体中にムズムズと生まれたばかりの予感が這いずり回るようで、僕はもうじっとしていることができなくなった。悠を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、まず台所に行って水をコップに二杯飲んだ。それからリビングの東側と南側のカーテンを開けて、東側の窓を全開にした。窓から見える景色は相変わらずだったが、南の方向に見える新しく風景に加わったマンションをしばらく眺めてから、東側百メートルくらい先に見えるビルの解体工事の準備が進んでいる様子を確認した。そして玄関に行って新聞を取ってくるとそのままトイレに入って新聞を拡げた。そこでは僕も昔聴いたことのあるロックスターの薬物死と、東北の沖合で発生した小規模な地震が報じられていた。とりあえず総体としては今日も平和な世界ということでいいんじゃないだろうかと僕は総括して、トイレの水を流した。どちらかといえば新聞の記事よりも僕はこの水洗のレバーが最近どうもスムーズに動かなくなったことの方が気になってしまう。引く時にも戻る時にもキーキーと軋むような音を立てて僕を苛立たせる。レバーはその表面に覗き込んだ僕の顔を間の抜けた形に変形させて映し出し、最後にしゃっくりでもするように小さく震えてから、どうだとでも言わんばかりに勢いよく水を流し出した。
僕はジャムをたっぷりのせたトーストとバナナで簡単な朝食をとってから、軽くストレッチをした。それからヤカンにたっぷりの水を入れてコンロにかけた。
「おはよう」
寝室からしわくちゃでヨレヨレのままの悠が出てきた。コーヒーのグラインダーの音と、挽き立ての豆の香りで目が覚めたのだろう。
「私の分ある?」
「もちろんさ。ついでに何か食べる?」
「いらない」
ソファに倒れ込むようにして座っている悠に目をやりながら、僕はまるで時計職人のように精密にそして慎重に二人分のコーヒーを淹れた。
悠はウチにある一番大きなマグカップに入ったコーヒーを受け取ると、両手で抱きかかえるようにして淹れたての熱いコーヒーをズズッとすすった。
僕はさっき新聞で読んだロックスターの話を悠にしてみた。悠も結構洋楽好きだったはずなのでもしやと思ったのだが、「知らない。誰、それ?」と言われて何も言えなくなってしまった。ジェネレーション・ギャップにつまずくありがちな話をここでもまた繰り返しただけだった。もちろんそれ自体にも、そして誰にも罪はないのだが、それは確実に二人の間に静かに寝そべるようにして横たわり、時折顔を起こしては話をさえぎってそしてまたパタンと横になってしまう。
二人はそのままソファに座ってコーヒーを飲みながら、昼までテレビを観た。悠は僕の知らない若いお笑いコンビを見てゲラゲラと笑っていたが、さすがに腹が減ったのかお腹をグルグル鳴らしながら、「お昼なんにする?」と言って体をくねらせた。そうだな、今日は天気がいいからとりあえず出かけるか。それから考えても遅くないだろ。オーケー。
念のために僕たちはどこに出かけるんだったっけ? ともう一度聞いてみたくなるくらいの長い時間をかけて、悠は洗面所の鏡の前で化粧をした。そのくせ結局顔がほとんど隠れてしまうようなつばの大きな帽子を被るんだ。にわか雨が降るかもしれないから折り畳み傘も忘れないでくれよ。
僕たちは家を出て歩くうち自然と近所の大きな公園に向かっていた。広場では子供たちが野球をしていた。もちろん本格的にやれるほど広い場所ではないので、規模やルールを適当に縮小した形で楽しんでいるのだろう。僕にはどの部分がどういう具合に変更されているのかよくわからないのだけど。歩道やベンチは友達同士や親子連れで賑わっている。三輪車で走る弟を一輪車で追いかけていたお姉ちゃんがよろめいてお父さんの胸に飛び込んだ。すると弟はそのまま三輪車で走り続け緩い傾斜の先で三輪車もろともひっくり返ってしまい泣き出してしまった。
「カワイイ」悠はケラケラと笑いながらその子供に向かって片足を後ろに跳ね上げながら両手を使って投げキッスをした。子供はしゃくり上げながらポカンとした顔で悠を見ていた。
僕は公園の近くにオーガニックショップがあったのを思い出した。悠を連れてその店に入りお昼はそこのバイキングランチを食べることにした。木製のトレイの上に紙を圧縮して成型したいくつもの間仕切りのある弁当パックをのせて、そこに好きなおかずを詰め込んでいく。最後にご飯を玄米と穀米から選んで詰めてもらい、秤の上に乗せて重さを量り値札のラベルを貼ってもらう。僕は玄米を選び、悠は穀米を選んだ。ご飯は何れも同じ値段のはずだが、おかずをパックの蓋が閉まらないくらい詰め込んだ悠の弁当は僕の五割増しの値段になった。悠は他にも化粧水やら石けんやらお菓子やらを買い込んで、五千円以上にもなった会計を済ませた僕を急かしながら弁当を食べる場所を探していた。店先のテラスにも椅子とテーブルはある程度あるのだがあいにくそこは一杯だったので、僕たちは公園に戻り空いているベンチで弁当を拡げた。オクラの天ぷら、鰯のハンバーグと箸を進めていって柔らかく炊けた玄米をほおばる。塩だけで食べる野菜のグリルも美味しい。暖かな日差しに包まれて食べる弁当には柔らかな光が宿り、まるで至福の食事のように見える。僕は最後に残ったキラキラとオレンジ色に輝いている人参のサラダを平らげた。
僕たちの目の前をいろいろな人が通り過ぎる。僕がこちらに向かってくる乳母車の中の赤ん坊にウィンクをすると赤ん坊はケラケラと笑い出した。母親が驚いたように上から覗き込んでから、隣を歩く父親となにやら話をするとみんなが笑った。その向こうでは一眼レフカメラを首から下げた二人連れの女の子が、あちこちの写真を撮っていた。一人の女の子がこちらにカメラを向けているのに悠が気づいて、箸を持ったまま両手を顔の両側に拡げてピースサインをした。女の子がシャッターを切ったのかどうかよくわからなかったが、カメラを下ろしてから軽くペコリと会釈した。
僕たちの座っているベンチの周りにはたくさんのハトやスズメが、そしてカラスまでもが一緒になってウロウロしていた。ベンチの後ろでは一羽のハトが変わった声で泣きながら体をくるくると回転させて、別のもう一羽のハトになにやらアピールしているように見えた。するともう一羽体中が真っ白な別のハトがやってきて、同じように泣きながら体を回転させて猛アピールを始めた。やがて相手のハトと白いハトは寄り添うようにして二羽でどこかに行ってしまい、最初のハトは呆然とその場に立ち尽くしていた。それを少し離れた場所で一羽のカラスがじっと見ていた。そのカラスは愛らしい目をしていたが、目と同じくらいの大きさのイボのようなものが目元にぶら下がっていて、その濡れた瞳はまるで泣いているようにも見えた。
食事が終わると僕たちはカフェに行った。僕はエスプレッソを、悠は抹茶のフラッペを注文した。隣のテーブルにはスーツを着た三十歳くらいの女と学生らしき男が座っていて、テーブル中に資料を拡げて女がしきりに男を説得しているようだった。おそらく何かの教材でも売りつけようとしているのだろう。優柔不断そうな男は時折汗を拭きながら小さく頷き黙って女の話を聞いているだけだった。しばらくして男は席を立ってトイレにでも行ったようだ。女は携帯電話を取りだして話し始めた。僕は足を組んでいる女のふくらはぎにある不吉なくらい大きなほくろを見ていた。まるで女の全てはその暗い穴からずるずると生まれだして、そして結局そこへ吸い込まれて帰って行くような気がした。
悠がその女とは反対側の二つ向こうのテーブルを見ろと言った。僕が言われた方を見ると、さっきの女より少し年はいってそうだが、白いブラウスに白いロングスカートの女が、少し年下に見える赤いチェックのワークシャツをジーンズの中に入れた男と座って話をしていた。
「あの女、前の仕事場で一緒だったんだけど、すごい嫌われもんだったんだ。とにかく性格が悪いの。だからずーっと婚活してるんだけど未だに一人なんだ。どうやらあの男が今日の標的みたいだね」
男はがっしりというよりは少しメタボリック気味で、下腹がたっぷりとして顔もパンパンだった。黒縁のメガネの奥にはやけに黒目の大きな目があり、口元からは少し前に出た前歯が男がしゃべるたびに申し訳なさそうに出たり入ったりしていた。女は今時見ない長めのブリッ子ヘアーでメガネはかけていないが糸を引いたように目が細く、口元からは男より前に出た歯がこちらはどうやっても隠れることなく常に露出していた。話は随分と盛り上がっているようで、特に男は大げさな身振り手振りを交え、噴き出す汗を拭おうともしないで夢中で話し続けていた。
「どうやら順調そうだよ」と僕が言うと、悠は不機嫌なアヒルのように唇を結び小さく肩をすくめた。気がつくと隣の席はもう空いていて、あんなにたくさんあった資料を一体いつ片付けたのだろうと僕は首を傾げた。
カフェを出ると、しばらく二人でショッピング街をウロウロし、その間に悠はメッシュのジョギングシューズと軽めのスポーツウェアの上下を買った。「あなたのも一緒に買わない?」と言われたが遠慮しておいた。理由がよくわからないだろ、と言うと、「別にいいじゃない」と言って少し不機嫌な素振りを見せた。
夕食のメニューは野菜がたっぷり入ったキーマカレーに決めた。カレーなら二人で二日分の夕食がまかなえるから二日目もたっぷり遊べるからだ。スーパーで必要な食材を買い、レジを通ってから持ってきた二つのエコバッグに買ったものを詰める。二人で一つずつ、僕が重い方を持って並んで歩きながら家に帰った。
今日のカレーは悠が作ってくれることになった。僕はソファに寝っ転がりチェーホフを読みながら、時折テレビを観た。悠のためにテレビはつけっぱなしになっていた。僕はウトウトとして、いつの間にか寝てしまった。
何日も降り止まない雨が街の中のあらゆるものを飲み込みながらほんの小さな一点に渦を巻きながら収束していった。それは次元に咲いた小さな一つのほくろのような穴だ。あらゆるものが分解されそこに吸い込まれていく。僕の体も粉々になってその流れに従う。その穴を通過すると今度はたちまち僕の体も他のあらゆるものも次々と再生されていく。しかももとの姿よりさらに美しく、完璧な形となって。そして全てのものが美しく感動的なまでの理想的な配置で再構築されていく。そこでは僕も悠も他のあらゆる全ての人も美しい。キラキラと光り輝く完璧な形の悠が僕にそっと近づいてそっと耳元で囁く――「ごはんできたよ」――。
カレーは美味かった。僕は珍しくおかわりをして満腹になった。苦しいお腹を抱えてソファでゴロゴロしている僕のところに後片付けを終えた悠が近づいてきてソファの端に浅く腰掛けた。手には何かパンフレットのようなものを持っている。
「今度この近くで区内の公園を回るウォーキングラリーがあるんだけど、一緒にエントリーしない? 楽しいよ、きっと」
「どれくらい歩くの?」
「ざっと十四、五キロくらいかな」
「無理だよ。ウォーキングシューズも持ってないし。そんなに歩けないよ」
「だからさっき買えばよかったじゃないよ、もう。いつもいつもそんな言い訳ばっかりでさ、全然チャレンジしてみようとかそんな気持ちないんだから」
声の様子に悠の顔を見ると、唇を震わせて僕を睨み付けていてその目には今にも涙が溢れそうだった。
「もう帰る!」
そう言うとバッグを鷲づかみにしてバタバタと玄関の方に歩いて行った。僕はソファに寝そべったまま、
「おーい、明日のカレーはどうすんだよ」と言った。僕としては僕なりに真剣に引き留めたつもりだった。
「うるさーい! バカッ!」
玄関のドアがキイッと開き、続いてバタンと大きく閉じる音が家中に響いた。さてどうしたものか。まあ後で電話でもしておけばいいだろう。もうお腹も落ち着いて眠気もなくなった。僕は読みかけのチェーホフを取ろうとソファの前のテーブルに手を伸ばした。その時、伸ばした僕の右腕の肘の内側に直径一センチくらいの真っ黒なほくろがあるのに気がついた。それはかすかに隆起し、よく見ると表面が波打つように蠢いていた。
雨がまた激しく降っていた。泣きながら飛び出していった悠は大丈夫だろうか? そして雨はあらゆるものを押し流し、収斂を繰り返しながらただ一点に集まっていく――。
休日の朝に動き出すにはまだ少し早い時間だったが、窓にぺったりと張り付いたような青空から降り注ぐあまりにも透明な光が僕の気持ちを逸らせた。体中にムズムズと生まれたばかりの予感が這いずり回るようで、僕はもうじっとしていることができなくなった。悠を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、まず台所に行って水をコップに二杯飲んだ。それからリビングの東側と南側のカーテンを開けて、東側の窓を全開にした。窓から見える景色は相変わらずだったが、南の方向に見える新しく風景に加わったマンションをしばらく眺めてから、東側百メートルくらい先に見えるビルの解体工事の準備が進んでいる様子を確認した。そして玄関に行って新聞を取ってくるとそのままトイレに入って新聞を拡げた。そこでは僕も昔聴いたことのあるロックスターの薬物死と、東北の沖合で発生した小規模な地震が報じられていた。とりあえず総体としては今日も平和な世界ということでいいんじゃないだろうかと僕は総括して、トイレの水を流した。どちらかといえば新聞の記事よりも僕はこの水洗のレバーが最近どうもスムーズに動かなくなったことの方が気になってしまう。引く時にも戻る時にもキーキーと軋むような音を立てて僕を苛立たせる。レバーはその表面に覗き込んだ僕の顔を間の抜けた形に変形させて映し出し、最後にしゃっくりでもするように小さく震えてから、どうだとでも言わんばかりに勢いよく水を流し出した。
僕はジャムをたっぷりのせたトーストとバナナで簡単な朝食をとってから、軽くストレッチをした。それからヤカンにたっぷりの水を入れてコンロにかけた。
「おはよう」
寝室からしわくちゃでヨレヨレのままの悠が出てきた。コーヒーのグラインダーの音と、挽き立ての豆の香りで目が覚めたのだろう。
「私の分ある?」
「もちろんさ。ついでに何か食べる?」
「いらない」
ソファに倒れ込むようにして座っている悠に目をやりながら、僕はまるで時計職人のように精密にそして慎重に二人分のコーヒーを淹れた。
悠はウチにある一番大きなマグカップに入ったコーヒーを受け取ると、両手で抱きかかえるようにして淹れたての熱いコーヒーをズズッとすすった。
僕はさっき新聞で読んだロックスターの話を悠にしてみた。悠も結構洋楽好きだったはずなのでもしやと思ったのだが、「知らない。誰、それ?」と言われて何も言えなくなってしまった。ジェネレーション・ギャップにつまずくありがちな話をここでもまた繰り返しただけだった。もちろんそれ自体にも、そして誰にも罪はないのだが、それは確実に二人の間に静かに寝そべるようにして横たわり、時折顔を起こしては話をさえぎってそしてまたパタンと横になってしまう。
二人はそのままソファに座ってコーヒーを飲みながら、昼までテレビを観た。悠は僕の知らない若いお笑いコンビを見てゲラゲラと笑っていたが、さすがに腹が減ったのかお腹をグルグル鳴らしながら、「お昼なんにする?」と言って体をくねらせた。そうだな、今日は天気がいいからとりあえず出かけるか。それから考えても遅くないだろ。オーケー。
念のために僕たちはどこに出かけるんだったっけ? ともう一度聞いてみたくなるくらいの長い時間をかけて、悠は洗面所の鏡の前で化粧をした。そのくせ結局顔がほとんど隠れてしまうようなつばの大きな帽子を被るんだ。にわか雨が降るかもしれないから折り畳み傘も忘れないでくれよ。
僕たちは家を出て歩くうち自然と近所の大きな公園に向かっていた。広場では子供たちが野球をしていた。もちろん本格的にやれるほど広い場所ではないので、規模やルールを適当に縮小した形で楽しんでいるのだろう。僕にはどの部分がどういう具合に変更されているのかよくわからないのだけど。歩道やベンチは友達同士や親子連れで賑わっている。三輪車で走る弟を一輪車で追いかけていたお姉ちゃんがよろめいてお父さんの胸に飛び込んだ。すると弟はそのまま三輪車で走り続け緩い傾斜の先で三輪車もろともひっくり返ってしまい泣き出してしまった。
「カワイイ」悠はケラケラと笑いながらその子供に向かって片足を後ろに跳ね上げながら両手を使って投げキッスをした。子供はしゃくり上げながらポカンとした顔で悠を見ていた。
僕は公園の近くにオーガニックショップがあったのを思い出した。悠を連れてその店に入りお昼はそこのバイキングランチを食べることにした。木製のトレイの上に紙を圧縮して成型したいくつもの間仕切りのある弁当パックをのせて、そこに好きなおかずを詰め込んでいく。最後にご飯を玄米と穀米から選んで詰めてもらい、秤の上に乗せて重さを量り値札のラベルを貼ってもらう。僕は玄米を選び、悠は穀米を選んだ。ご飯は何れも同じ値段のはずだが、おかずをパックの蓋が閉まらないくらい詰め込んだ悠の弁当は僕の五割増しの値段になった。悠は他にも化粧水やら石けんやらお菓子やらを買い込んで、五千円以上にもなった会計を済ませた僕を急かしながら弁当を食べる場所を探していた。店先のテラスにも椅子とテーブルはある程度あるのだがあいにくそこは一杯だったので、僕たちは公園に戻り空いているベンチで弁当を拡げた。オクラの天ぷら、鰯のハンバーグと箸を進めていって柔らかく炊けた玄米をほおばる。塩だけで食べる野菜のグリルも美味しい。暖かな日差しに包まれて食べる弁当には柔らかな光が宿り、まるで至福の食事のように見える。僕は最後に残ったキラキラとオレンジ色に輝いている人参のサラダを平らげた。
僕たちの目の前をいろいろな人が通り過ぎる。僕がこちらに向かってくる乳母車の中の赤ん坊にウィンクをすると赤ん坊はケラケラと笑い出した。母親が驚いたように上から覗き込んでから、隣を歩く父親となにやら話をするとみんなが笑った。その向こうでは一眼レフカメラを首から下げた二人連れの女の子が、あちこちの写真を撮っていた。一人の女の子がこちらにカメラを向けているのに悠が気づいて、箸を持ったまま両手を顔の両側に拡げてピースサインをした。女の子がシャッターを切ったのかどうかよくわからなかったが、カメラを下ろしてから軽くペコリと会釈した。
僕たちの座っているベンチの周りにはたくさんのハトやスズメが、そしてカラスまでもが一緒になってウロウロしていた。ベンチの後ろでは一羽のハトが変わった声で泣きながら体をくるくると回転させて、別のもう一羽のハトになにやらアピールしているように見えた。するともう一羽体中が真っ白な別のハトがやってきて、同じように泣きながら体を回転させて猛アピールを始めた。やがて相手のハトと白いハトは寄り添うようにして二羽でどこかに行ってしまい、最初のハトは呆然とその場に立ち尽くしていた。それを少し離れた場所で一羽のカラスがじっと見ていた。そのカラスは愛らしい目をしていたが、目と同じくらいの大きさのイボのようなものが目元にぶら下がっていて、その濡れた瞳はまるで泣いているようにも見えた。
食事が終わると僕たちはカフェに行った。僕はエスプレッソを、悠は抹茶のフラッペを注文した。隣のテーブルにはスーツを着た三十歳くらいの女と学生らしき男が座っていて、テーブル中に資料を拡げて女がしきりに男を説得しているようだった。おそらく何かの教材でも売りつけようとしているのだろう。優柔不断そうな男は時折汗を拭きながら小さく頷き黙って女の話を聞いているだけだった。しばらくして男は席を立ってトイレにでも行ったようだ。女は携帯電話を取りだして話し始めた。僕は足を組んでいる女のふくらはぎにある不吉なくらい大きなほくろを見ていた。まるで女の全てはその暗い穴からずるずると生まれだして、そして結局そこへ吸い込まれて帰って行くような気がした。
悠がその女とは反対側の二つ向こうのテーブルを見ろと言った。僕が言われた方を見ると、さっきの女より少し年はいってそうだが、白いブラウスに白いロングスカートの女が、少し年下に見える赤いチェックのワークシャツをジーンズの中に入れた男と座って話をしていた。
「あの女、前の仕事場で一緒だったんだけど、すごい嫌われもんだったんだ。とにかく性格が悪いの。だからずーっと婚活してるんだけど未だに一人なんだ。どうやらあの男が今日の標的みたいだね」
男はがっしりというよりは少しメタボリック気味で、下腹がたっぷりとして顔もパンパンだった。黒縁のメガネの奥にはやけに黒目の大きな目があり、口元からは少し前に出た前歯が男がしゃべるたびに申し訳なさそうに出たり入ったりしていた。女は今時見ない長めのブリッ子ヘアーでメガネはかけていないが糸を引いたように目が細く、口元からは男より前に出た歯がこちらはどうやっても隠れることなく常に露出していた。話は随分と盛り上がっているようで、特に男は大げさな身振り手振りを交え、噴き出す汗を拭おうともしないで夢中で話し続けていた。
「どうやら順調そうだよ」と僕が言うと、悠は不機嫌なアヒルのように唇を結び小さく肩をすくめた。気がつくと隣の席はもう空いていて、あんなにたくさんあった資料を一体いつ片付けたのだろうと僕は首を傾げた。
カフェを出ると、しばらく二人でショッピング街をウロウロし、その間に悠はメッシュのジョギングシューズと軽めのスポーツウェアの上下を買った。「あなたのも一緒に買わない?」と言われたが遠慮しておいた。理由がよくわからないだろ、と言うと、「別にいいじゃない」と言って少し不機嫌な素振りを見せた。
夕食のメニューは野菜がたっぷり入ったキーマカレーに決めた。カレーなら二人で二日分の夕食がまかなえるから二日目もたっぷり遊べるからだ。スーパーで必要な食材を買い、レジを通ってから持ってきた二つのエコバッグに買ったものを詰める。二人で一つずつ、僕が重い方を持って並んで歩きながら家に帰った。
今日のカレーは悠が作ってくれることになった。僕はソファに寝っ転がりチェーホフを読みながら、時折テレビを観た。悠のためにテレビはつけっぱなしになっていた。僕はウトウトとして、いつの間にか寝てしまった。
何日も降り止まない雨が街の中のあらゆるものを飲み込みながらほんの小さな一点に渦を巻きながら収束していった。それは次元に咲いた小さな一つのほくろのような穴だ。あらゆるものが分解されそこに吸い込まれていく。僕の体も粉々になってその流れに従う。その穴を通過すると今度はたちまち僕の体も他のあらゆるものも次々と再生されていく。しかももとの姿よりさらに美しく、完璧な形となって。そして全てのものが美しく感動的なまでの理想的な配置で再構築されていく。そこでは僕も悠も他のあらゆる全ての人も美しい。キラキラと光り輝く完璧な形の悠が僕にそっと近づいてそっと耳元で囁く――「ごはんできたよ」――。
カレーは美味かった。僕は珍しくおかわりをして満腹になった。苦しいお腹を抱えてソファでゴロゴロしている僕のところに後片付けを終えた悠が近づいてきてソファの端に浅く腰掛けた。手には何かパンフレットのようなものを持っている。
「今度この近くで区内の公園を回るウォーキングラリーがあるんだけど、一緒にエントリーしない? 楽しいよ、きっと」
「どれくらい歩くの?」
「ざっと十四、五キロくらいかな」
「無理だよ。ウォーキングシューズも持ってないし。そんなに歩けないよ」
「だからさっき買えばよかったじゃないよ、もう。いつもいつもそんな言い訳ばっかりでさ、全然チャレンジしてみようとかそんな気持ちないんだから」
声の様子に悠の顔を見ると、唇を震わせて僕を睨み付けていてその目には今にも涙が溢れそうだった。
「もう帰る!」
そう言うとバッグを鷲づかみにしてバタバタと玄関の方に歩いて行った。僕はソファに寝そべったまま、
「おーい、明日のカレーはどうすんだよ」と言った。僕としては僕なりに真剣に引き留めたつもりだった。
「うるさーい! バカッ!」
玄関のドアがキイッと開き、続いてバタンと大きく閉じる音が家中に響いた。さてどうしたものか。まあ後で電話でもしておけばいいだろう。もうお腹も落ち着いて眠気もなくなった。僕は読みかけのチェーホフを取ろうとソファの前のテーブルに手を伸ばした。その時、伸ばした僕の右腕の肘の内側に直径一センチくらいの真っ黒なほくろがあるのに気がついた。それはかすかに隆起し、よく見ると表面が波打つように蠢いていた。
雨がまた激しく降っていた。泣きながら飛び出していった悠は大丈夫だろうか? そして雨はあらゆるものを押し流し、収斂を繰り返しながらただ一点に集まっていく――。
スケープゴート ― 2009年07月14日 13時04分24秒
ある日ポストにマンションの管理組合から一枚の通知が入っていた。
『貴殿は次期(第六期)の管理組合理事に選任されました。付きましては引き継ぎを行いたいと思いますので、来たる三月三日(土)十八時に当マンション一階の集会室までお集まりください』
このマンションを購入してもう五年になるわけだが、管理組合なんてものの存在はすっかり忘れていた。そういえば入居時に説明があって、区分所有者にて管理組合を組織し当マンションの維持・管理活動を行うこと、その執行役員として選出された理事によって実質的に管理組合を運営すること、理事は区分所有者にて輪番制によって持ち回りとすること等というようなことを聞いたのを思い出した。その順番が今回僕に回ってきたということだ。面倒なことには違いないが、区分所有者としてはやらないわけにはいかないだろう。内心しぶしぶではあったが、まあ仕方ないと自分を納得させた。
指定された時刻より十分ほど早く集会室を訪れると、そこにはもうすでに何人かやってきていた。見覚えのある顔もいくつかあって、少し安心した。まだ時間にはなっていなかったがもう人数がそろったからということで、理事長であるという男が話を始めた。
「えー、それでは新理事の方々にはですね、すでに我々の方で担当を割り振っていますので、この後それぞれ担当レベルで引き継ぎをお願いします。それでは新しい理事の方のお名前と担当を発表します」
理事長は手元の資料を見ながら新しい理事の名前と担当を次々に呼び上げていった。
「――で、前田さんが庶務担当、と、以上です」と僕の名前を最後に読み上げてから、理事長は顔を上げ一同を見渡した。
――庶務担当?
訝しげな顔をしている僕の方を理事長が見て、一瞬気の毒そうな顔をしたような気がした。
現庶務担当は遠山という男で、がっちりした体で色が黒くて体毛も濃いのだがひどくやつれた印象で、顔にはシミが目立ち目は焦点が定まらず、どこかに生気というか魂を置き忘れてきたようだった。僕と遠山は二人でテーブルに向かい合わせに座ると、遠山は仕方ないといった風にポツリポツリと話を始めた。
「えー、実はですね、このマンションが建つ前にここに一軒の家がありましてね。そこには年老いたおばあさんが一人で住んでいたんですが、彼女は何といいますか呪術師とでもいいますか、いえ、私もよくは知らないんですがね、そういった方でして。土地を売却する際の条件として、その後に建つマンションがですね、いわゆる平穏無事であるようにご祈祷をさせろということでして――」
遠山はふうっと一息ついて、自分の魂がどこかに抜け出していないのを確認するようにあたりを見回してから続けた。
「当時はなにぶんマンションブームでして、新規物件が建てば飛ぶように売れましたし、おまけにここは立地もよかったもので建築会社もその条件をのんでしまったというわけでして。ですからこのマンションは今でも月に一回おばあさんにご祈祷をしてもらっているんですよ。もちろんきちんと祈祷料を払ってね」
今度は遠山はやれやれこれで肩の荷が下りたといった風な安堵の表情を浮かべ、僕に媚びるような目をした。
「ご祈祷なんてどこでやるんですか? 毎月そんなことをやってたらかなり目立つでしょうに」僕が訪ねると、
「実はこのマンションには秘密の入り口から降りていく地下室があるんですよ。そこが祈祷室になっています。おばあさんは新月の深夜になるとそこでご祈祷をするんです」
「ふんふん、それはよくわかりましたけど、それとこの我々の庶務担当の仕事とはどういう関係があるんです?」
「ですから、そのおばあさんのご祈祷のお手伝いをするんですよ。ただし祈祷室に入ることが出来るのはおばあさんだけですから、ご祈祷中にどうこうということはありません。重要なのはその準備作業ですね」
「準備作業?」
「はい、おばあさんのご祈祷にはいわゆる生け贄が必要なんですよ」
「い、生け贄ですって? ま、まさか……」
「いえいえ、いくら何でも今時こんな街中で人間を生け贄になんて出来るわけがありません。動物でいいんですよ。ただし昆虫や爬虫類といったようなあまり小さな動物ではだめです。手近なところではやはり犬、猫でしょうかねぇ。それをご祈祷の一週間くらい前に捕まえて、祈祷室の前の檻に入れておくんですよ。一週間おくのはその間飲み食いをさせず生け贄を清めるという意味合いがあります。これが大きな毛並みのいい犬なんかだとおばあさんもかなり喜んでくれるようですよ」
「……」
「それとご祈祷が終わった後の生け贄の死骸の後始末ですかね。おばあさんが帰った後、祈祷室の前に死骸が転がってますから、それをマンションの北西に小さな焼却炉があるでしょ? そこに持って行って焼くんです。それでおしまい。それが我々庶務担当の仕事の全てです」
「そ、そんなことをこのマンションでは五年間もやってたんですか?」
「いえいえ、もちろん気持ち悪いだの馬鹿馬鹿しいだのということで、何年か前にしばらくご祈祷の用意をしなかったことがあるらしいんです。そうしたところ、たちまちマンションの外壁のあちこちにヒビが入ったり、雨が漏ったりして大規模な補修工事が必要になりました。エレベーターもしょっちゅう故障するようになりましたしね」
「補修工事って、あれは確か手抜き工事の補修ってことでしたよね? エレベーターもメーカーのリコールになったんじゃないんですか?」
「それがそうではなかったんです。もちろん因果関係は証明できませんが、全てはおばあさんのご祈祷を拒んだからなんです。実際それからご祈祷を再開してもらってから今までこのマンションには全く問題は起きていません。ゴミを出す日を守らない人がいたり、ペットにエレベーターで粗相をさせたりといったことすら一度もありません。全てが全く平穏無事なのです」
「……」
「そういうことですから、前田さん、これから一年間よろしくお願いしますね」
「……仕方ないですね。そういうことでしたらなんとかやってみましょう」
「一応詳細なマニュアルはここにありますから、次のご祈祷の日までによく読んでおいて、忘れずに一回目の準備をお願いしますよ」
遠山は目の前に置いた薄いファイルをポンと叩いて言った。
「わかりました」
気がつくと、集会室は僕と遠山の二人だけになっていた。遠山は慌てて立ち上がり、「それじゃ」と言って忙しなくお辞儀を何回もしてから部屋を出て行った。
僕は一人になった集会室で両手を拡げて肩をすくめ、ハアッと声を出してから首をぐらぐらと揺らした。僕は抜き差しならない状況に追い込まれた。担当を変えてくれるように理事会に諮ってみるか。いやいや、こんな役他に引き受け手がいるはずもない。じゃあ何で僕が? 日頃のマンションの管理業務への無関心さを見透かされて厄介な仕事に回されたのか? いや、ひょっとしておばあさんのおぼし召し? まさか!
人生に於いてどうしても向き合わなければならないものが出来た時に多くの人がそうするように、僕は何もせずただぼんやりとしたままそれからの何日かを過ごした。そして諦めたように机の引き出しにしまい込んでいた遠山から引き継いだファイルを取り出した。
マニュアルには過去五年間とこの先五年間の新月のカレンダーが入っていた。それによると次の新月の夜は三月十五日だ。もうあまり余裕がない。僕は同じくマニュアルを頼りに、集会室の隣にある倉庫の奥から生け贄捕獲用の道具(大型ネット、麻酔銃、暗視スコープなど)を持ち出した。
「一体何なのよ。これは? 今から猛獣狩りにでも出かけるつもり?」
リビングに拡げられたいかにもただならぬ気配を振りまいている道具たちを見て、妻が驚いて言った。もちろん隠し通せるわけはないし、嘘もつけない。もっともそんな必要はないんだけれど。僕は全てを妻に話した。妻は一応納得してくれたようだが、どうやらまだ半信半疑のようだった。ただ、好きにやってくれていいが決して私を巻き込まないでくれ、と言った。
僕はマニュアルに従って、それぞれの道具の使い方を一通り習得した。麻酔弾は今年の分が補充されたようでたっぷり五十発はある。暗視スコープのバッテリーも充分だ。僕はミリタリーショップで買ってきた全身黒ずくめの戦闘服に身を包み、顔にカモフラージュのためのペインティングをして、ある日の深夜生け贄の捕獲に出かけた。
ある程度の捕獲エリアと捕まえることの出来る動物の種類はマニュアルに参考程度には載っていた。初心者であることを考えるとやはり最初は大きな公園で猫かなんかを狙うべきだろう。僕は普段よく行く公園でいつもたくさんの猫がたむろしている場所の近くに陣取り様子を伺った。しばらく待っていると、草むらの影から一匹の黒猫が現れた。深夜であたりは真っ暗だ。猫も特に警戒している様子もなく、低い木の切り株の上に飛び乗るとそこで寝そべった。僕は音を立てないように少しずつ射程距離まで近づいていき、麻酔銃を構えるとスコープの中で緑色に浮かび上がった猫の腹をめがけて引き金を引いた。猫はギュッという小さな声を上げて飛び上がり、慌てて逃げようとして走り出したが十メートルも行かないうちに体が動かなくなって、歩道に続く芝生の上で静かに横になった。僕はゆっくりと猫に近づくと、麻酔弾を抜いてやってから、麻袋を取り出して暖かい猫の体をそっとその中に入れた。
マンションに帰ると、自転車置き場と集会室の間のドアを開け、さらにその通路の途中にある小さなドアを専用の鍵で開けて中に入った。祈祷室への入り口だ。そこは細長く狭いコンクリートの壁で囲まれた空間で、左側の中央にそれこそが祈祷室へと続くであろうと思われるドアがあった。僕はそのドアの鍵は持っていないので見ることが出来るのはここまでた。僕はその空間の奥にある大きめの檻を開けて、麻袋に入ったままの猫をその中にそっと置き、檻を閉めた。そして来た道を戻り、倉庫に寄って道具を全て片付けてから家に帰った。
新月の夜が過ぎ、僕は再び深夜祈祷室へと続く部屋に行った。檻の前に生け贄の亡骸が入っているはずの麻袋が無造作に転がっていた。どうやら本当に生け贄を使った祈祷が執り行われたらしい様子に、僕は改めてゾクッとした。麻袋を拾い上げるとそれは驚くほど軽かった。確かに何かが納まっている気配はあるのだが、それは不思議なくらい、ふわりと宙に浮くほどに軽かった。しかし中を開けてまで確かめてみる気は起きなかった。
僕はそのまま焼却炉に向かい、麻袋を放り込むと、点火した。僕は近くにあったパイプ椅子に腰掛けぼんやりと焼却炉を見ていた。数十分が経ってそろそろ焼き終わろうかという頃、少しうとうとしていた僕は目映いばかりの光で目が覚めた。見ると焼却炉全体が息づくように収縮しながら黄金色に光り輝いていたのだ。やがて光は次第に弱くなっていき鼓動のような収縮も治まっていった。そしてそれはいつもの赤銅色の焼却炉になった。
それから僕は新月の夜が近づくたび、生け贄の捕獲に出かけていった。動物もある時は野良犬だったり、車で山に入ってイタチやタヌキを捕まえることもあった。僕もだんだんと慣れてきて、楽しいとまでは言わないもののある種の透明な意識を保ったまま捕獲作業にあたることが出来るようになっていた。そして生け贄の亡骸はいつもふわりと軽く、焼却炉は黄金色に輝きながら律動した。僕は自分が次第に軽く透明になっていくような気がしていた。
一年が経ち、僕は庶務担当を京野という男に引き継ぐことになった。僕よりも年配で禿げた頭頂部と意地悪そうな顔をした京野に、一年前の遠山と同じように一部始終を説明していった。京野は驚き、唸り声をあげながら僕の説明を聞いていたが、最後はどうにか納得してくれたようで引き継ぎは無事終了した。
「京野さん、これから一年間よろしくお願いしますね。詳細なマニュアルはここにありますので、一回目の準備を忘れずにお願いしますよ」
僕はマニュアルの収められたファイルをポンと叩いて言った。
その時初めて知ったのだが、遠山はもうすでに引っ越しをしてこのマンションからいなくなっていた。引き継ぎをやってしばらくのことだったらしい。何故か僕は無性に遠山に会って話をしたい衝動にかられた。
この一年間で僕の中の何かはすっかり損なわれてしまったようだ。でもそれが一体何なのか、それが僕にとって一体どういう意味を持つのか、今でも何一つわからない。しかし僕は今でもその自分の中の損なわれてしまった何かを取り戻そうと密かに闘っている。日々僅かずつの新たな犠牲を払いながら。
『貴殿は次期(第六期)の管理組合理事に選任されました。付きましては引き継ぎを行いたいと思いますので、来たる三月三日(土)十八時に当マンション一階の集会室までお集まりください』
このマンションを購入してもう五年になるわけだが、管理組合なんてものの存在はすっかり忘れていた。そういえば入居時に説明があって、区分所有者にて管理組合を組織し当マンションの維持・管理活動を行うこと、その執行役員として選出された理事によって実質的に管理組合を運営すること、理事は区分所有者にて輪番制によって持ち回りとすること等というようなことを聞いたのを思い出した。その順番が今回僕に回ってきたということだ。面倒なことには違いないが、区分所有者としてはやらないわけにはいかないだろう。内心しぶしぶではあったが、まあ仕方ないと自分を納得させた。
指定された時刻より十分ほど早く集会室を訪れると、そこにはもうすでに何人かやってきていた。見覚えのある顔もいくつかあって、少し安心した。まだ時間にはなっていなかったがもう人数がそろったからということで、理事長であるという男が話を始めた。
「えー、それでは新理事の方々にはですね、すでに我々の方で担当を割り振っていますので、この後それぞれ担当レベルで引き継ぎをお願いします。それでは新しい理事の方のお名前と担当を発表します」
理事長は手元の資料を見ながら新しい理事の名前と担当を次々に呼び上げていった。
「――で、前田さんが庶務担当、と、以上です」と僕の名前を最後に読み上げてから、理事長は顔を上げ一同を見渡した。
――庶務担当?
訝しげな顔をしている僕の方を理事長が見て、一瞬気の毒そうな顔をしたような気がした。
現庶務担当は遠山という男で、がっちりした体で色が黒くて体毛も濃いのだがひどくやつれた印象で、顔にはシミが目立ち目は焦点が定まらず、どこかに生気というか魂を置き忘れてきたようだった。僕と遠山は二人でテーブルに向かい合わせに座ると、遠山は仕方ないといった風にポツリポツリと話を始めた。
「えー、実はですね、このマンションが建つ前にここに一軒の家がありましてね。そこには年老いたおばあさんが一人で住んでいたんですが、彼女は何といいますか呪術師とでもいいますか、いえ、私もよくは知らないんですがね、そういった方でして。土地を売却する際の条件として、その後に建つマンションがですね、いわゆる平穏無事であるようにご祈祷をさせろということでして――」
遠山はふうっと一息ついて、自分の魂がどこかに抜け出していないのを確認するようにあたりを見回してから続けた。
「当時はなにぶんマンションブームでして、新規物件が建てば飛ぶように売れましたし、おまけにここは立地もよかったもので建築会社もその条件をのんでしまったというわけでして。ですからこのマンションは今でも月に一回おばあさんにご祈祷をしてもらっているんですよ。もちろんきちんと祈祷料を払ってね」
今度は遠山はやれやれこれで肩の荷が下りたといった風な安堵の表情を浮かべ、僕に媚びるような目をした。
「ご祈祷なんてどこでやるんですか? 毎月そんなことをやってたらかなり目立つでしょうに」僕が訪ねると、
「実はこのマンションには秘密の入り口から降りていく地下室があるんですよ。そこが祈祷室になっています。おばあさんは新月の深夜になるとそこでご祈祷をするんです」
「ふんふん、それはよくわかりましたけど、それとこの我々の庶務担当の仕事とはどういう関係があるんです?」
「ですから、そのおばあさんのご祈祷のお手伝いをするんですよ。ただし祈祷室に入ることが出来るのはおばあさんだけですから、ご祈祷中にどうこうということはありません。重要なのはその準備作業ですね」
「準備作業?」
「はい、おばあさんのご祈祷にはいわゆる生け贄が必要なんですよ」
「い、生け贄ですって? ま、まさか……」
「いえいえ、いくら何でも今時こんな街中で人間を生け贄になんて出来るわけがありません。動物でいいんですよ。ただし昆虫や爬虫類といったようなあまり小さな動物ではだめです。手近なところではやはり犬、猫でしょうかねぇ。それをご祈祷の一週間くらい前に捕まえて、祈祷室の前の檻に入れておくんですよ。一週間おくのはその間飲み食いをさせず生け贄を清めるという意味合いがあります。これが大きな毛並みのいい犬なんかだとおばあさんもかなり喜んでくれるようですよ」
「……」
「それとご祈祷が終わった後の生け贄の死骸の後始末ですかね。おばあさんが帰った後、祈祷室の前に死骸が転がってますから、それをマンションの北西に小さな焼却炉があるでしょ? そこに持って行って焼くんです。それでおしまい。それが我々庶務担当の仕事の全てです」
「そ、そんなことをこのマンションでは五年間もやってたんですか?」
「いえいえ、もちろん気持ち悪いだの馬鹿馬鹿しいだのということで、何年か前にしばらくご祈祷の用意をしなかったことがあるらしいんです。そうしたところ、たちまちマンションの外壁のあちこちにヒビが入ったり、雨が漏ったりして大規模な補修工事が必要になりました。エレベーターもしょっちゅう故障するようになりましたしね」
「補修工事って、あれは確か手抜き工事の補修ってことでしたよね? エレベーターもメーカーのリコールになったんじゃないんですか?」
「それがそうではなかったんです。もちろん因果関係は証明できませんが、全てはおばあさんのご祈祷を拒んだからなんです。実際それからご祈祷を再開してもらってから今までこのマンションには全く問題は起きていません。ゴミを出す日を守らない人がいたり、ペットにエレベーターで粗相をさせたりといったことすら一度もありません。全てが全く平穏無事なのです」
「……」
「そういうことですから、前田さん、これから一年間よろしくお願いしますね」
「……仕方ないですね。そういうことでしたらなんとかやってみましょう」
「一応詳細なマニュアルはここにありますから、次のご祈祷の日までによく読んでおいて、忘れずに一回目の準備をお願いしますよ」
遠山は目の前に置いた薄いファイルをポンと叩いて言った。
「わかりました」
気がつくと、集会室は僕と遠山の二人だけになっていた。遠山は慌てて立ち上がり、「それじゃ」と言って忙しなくお辞儀を何回もしてから部屋を出て行った。
僕は一人になった集会室で両手を拡げて肩をすくめ、ハアッと声を出してから首をぐらぐらと揺らした。僕は抜き差しならない状況に追い込まれた。担当を変えてくれるように理事会に諮ってみるか。いやいや、こんな役他に引き受け手がいるはずもない。じゃあ何で僕が? 日頃のマンションの管理業務への無関心さを見透かされて厄介な仕事に回されたのか? いや、ひょっとしておばあさんのおぼし召し? まさか!
人生に於いてどうしても向き合わなければならないものが出来た時に多くの人がそうするように、僕は何もせずただぼんやりとしたままそれからの何日かを過ごした。そして諦めたように机の引き出しにしまい込んでいた遠山から引き継いだファイルを取り出した。
マニュアルには過去五年間とこの先五年間の新月のカレンダーが入っていた。それによると次の新月の夜は三月十五日だ。もうあまり余裕がない。僕は同じくマニュアルを頼りに、集会室の隣にある倉庫の奥から生け贄捕獲用の道具(大型ネット、麻酔銃、暗視スコープなど)を持ち出した。
「一体何なのよ。これは? 今から猛獣狩りにでも出かけるつもり?」
リビングに拡げられたいかにもただならぬ気配を振りまいている道具たちを見て、妻が驚いて言った。もちろん隠し通せるわけはないし、嘘もつけない。もっともそんな必要はないんだけれど。僕は全てを妻に話した。妻は一応納得してくれたようだが、どうやらまだ半信半疑のようだった。ただ、好きにやってくれていいが決して私を巻き込まないでくれ、と言った。
僕はマニュアルに従って、それぞれの道具の使い方を一通り習得した。麻酔弾は今年の分が補充されたようでたっぷり五十発はある。暗視スコープのバッテリーも充分だ。僕はミリタリーショップで買ってきた全身黒ずくめの戦闘服に身を包み、顔にカモフラージュのためのペインティングをして、ある日の深夜生け贄の捕獲に出かけた。
ある程度の捕獲エリアと捕まえることの出来る動物の種類はマニュアルに参考程度には載っていた。初心者であることを考えるとやはり最初は大きな公園で猫かなんかを狙うべきだろう。僕は普段よく行く公園でいつもたくさんの猫がたむろしている場所の近くに陣取り様子を伺った。しばらく待っていると、草むらの影から一匹の黒猫が現れた。深夜であたりは真っ暗だ。猫も特に警戒している様子もなく、低い木の切り株の上に飛び乗るとそこで寝そべった。僕は音を立てないように少しずつ射程距離まで近づいていき、麻酔銃を構えるとスコープの中で緑色に浮かび上がった猫の腹をめがけて引き金を引いた。猫はギュッという小さな声を上げて飛び上がり、慌てて逃げようとして走り出したが十メートルも行かないうちに体が動かなくなって、歩道に続く芝生の上で静かに横になった。僕はゆっくりと猫に近づくと、麻酔弾を抜いてやってから、麻袋を取り出して暖かい猫の体をそっとその中に入れた。
マンションに帰ると、自転車置き場と集会室の間のドアを開け、さらにその通路の途中にある小さなドアを専用の鍵で開けて中に入った。祈祷室への入り口だ。そこは細長く狭いコンクリートの壁で囲まれた空間で、左側の中央にそれこそが祈祷室へと続くであろうと思われるドアがあった。僕はそのドアの鍵は持っていないので見ることが出来るのはここまでた。僕はその空間の奥にある大きめの檻を開けて、麻袋に入ったままの猫をその中にそっと置き、檻を閉めた。そして来た道を戻り、倉庫に寄って道具を全て片付けてから家に帰った。
新月の夜が過ぎ、僕は再び深夜祈祷室へと続く部屋に行った。檻の前に生け贄の亡骸が入っているはずの麻袋が無造作に転がっていた。どうやら本当に生け贄を使った祈祷が執り行われたらしい様子に、僕は改めてゾクッとした。麻袋を拾い上げるとそれは驚くほど軽かった。確かに何かが納まっている気配はあるのだが、それは不思議なくらい、ふわりと宙に浮くほどに軽かった。しかし中を開けてまで確かめてみる気は起きなかった。
僕はそのまま焼却炉に向かい、麻袋を放り込むと、点火した。僕は近くにあったパイプ椅子に腰掛けぼんやりと焼却炉を見ていた。数十分が経ってそろそろ焼き終わろうかという頃、少しうとうとしていた僕は目映いばかりの光で目が覚めた。見ると焼却炉全体が息づくように収縮しながら黄金色に光り輝いていたのだ。やがて光は次第に弱くなっていき鼓動のような収縮も治まっていった。そしてそれはいつもの赤銅色の焼却炉になった。
それから僕は新月の夜が近づくたび、生け贄の捕獲に出かけていった。動物もある時は野良犬だったり、車で山に入ってイタチやタヌキを捕まえることもあった。僕もだんだんと慣れてきて、楽しいとまでは言わないもののある種の透明な意識を保ったまま捕獲作業にあたることが出来るようになっていた。そして生け贄の亡骸はいつもふわりと軽く、焼却炉は黄金色に輝きながら律動した。僕は自分が次第に軽く透明になっていくような気がしていた。
一年が経ち、僕は庶務担当を京野という男に引き継ぐことになった。僕よりも年配で禿げた頭頂部と意地悪そうな顔をした京野に、一年前の遠山と同じように一部始終を説明していった。京野は驚き、唸り声をあげながら僕の説明を聞いていたが、最後はどうにか納得してくれたようで引き継ぎは無事終了した。
「京野さん、これから一年間よろしくお願いしますね。詳細なマニュアルはここにありますので、一回目の準備を忘れずにお願いしますよ」
僕はマニュアルの収められたファイルをポンと叩いて言った。
その時初めて知ったのだが、遠山はもうすでに引っ越しをしてこのマンションからいなくなっていた。引き継ぎをやってしばらくのことだったらしい。何故か僕は無性に遠山に会って話をしたい衝動にかられた。
この一年間で僕の中の何かはすっかり損なわれてしまったようだ。でもそれが一体何なのか、それが僕にとって一体どういう意味を持つのか、今でも何一つわからない。しかし僕は今でもその自分の中の損なわれてしまった何かを取り戻そうと密かに闘っている。日々僅かずつの新たな犠牲を払いながら。
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