つゆのあとさき2009年07月09日 00時51分57秒

 昨夜までの激しい雨がまるでよく思い出せない一夜の悪い夢だったかのようにカラリと晴れた今日の青空を、僕はベッドに寝転がったまま見上げていた。隣では昨夜は窓を打つ雨と風に怯えていたはずの悠が、軽い寝息を立てて安らかに眠っている。反対側を向いた悠の肩がゆっくりと上下に動き、そこから足にかけての精妙なラインを息づかせていた。僕は目だけでそのなだらかな丘陵の端から端までをたどり、その行方がはっきりしない爪先を想像したあたりで消息が途絶えてしまった目線を回収した。
 休日の朝に動き出すにはまだ少し早い時間だったが、窓にぺったりと張り付いたような青空から降り注ぐあまりにも透明な光が僕の気持ちを逸らせた。体中にムズムズと生まれたばかりの予感が這いずり回るようで、僕はもうじっとしていることができなくなった。悠を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、まず台所に行って水をコップに二杯飲んだ。それからリビングの東側と南側のカーテンを開けて、東側の窓を全開にした。窓から見える景色は相変わらずだったが、南の方向に見える新しく風景に加わったマンションをしばらく眺めてから、東側百メートルくらい先に見えるビルの解体工事の準備が進んでいる様子を確認した。そして玄関に行って新聞を取ってくるとそのままトイレに入って新聞を拡げた。そこでは僕も昔聴いたことのあるロックスターの薬物死と、東北の沖合で発生した小規模な地震が報じられていた。とりあえず総体としては今日も平和な世界ということでいいんじゃないだろうかと僕は総括して、トイレの水を流した。どちらかといえば新聞の記事よりも僕はこの水洗のレバーが最近どうもスムーズに動かなくなったことの方が気になってしまう。引く時にも戻る時にもキーキーと軋むような音を立てて僕を苛立たせる。レバーはその表面に覗き込んだ僕の顔を間の抜けた形に変形させて映し出し、最後にしゃっくりでもするように小さく震えてから、どうだとでも言わんばかりに勢いよく水を流し出した。
 僕はジャムをたっぷりのせたトーストとバナナで簡単な朝食をとってから、軽くストレッチをした。それからヤカンにたっぷりの水を入れてコンロにかけた。
「おはよう」
 寝室からしわくちゃでヨレヨレのままの悠が出てきた。コーヒーのグラインダーの音と、挽き立ての豆の香りで目が覚めたのだろう。
「私の分ある?」
「もちろんさ。ついでに何か食べる?」
「いらない」
 ソファに倒れ込むようにして座っている悠に目をやりながら、僕はまるで時計職人のように精密にそして慎重に二人分のコーヒーを淹れた。
 悠はウチにある一番大きなマグカップに入ったコーヒーを受け取ると、両手で抱きかかえるようにして淹れたての熱いコーヒーをズズッとすすった。
 僕はさっき新聞で読んだロックスターの話を悠にしてみた。悠も結構洋楽好きだったはずなのでもしやと思ったのだが、「知らない。誰、それ?」と言われて何も言えなくなってしまった。ジェネレーション・ギャップにつまずくありがちな話をここでもまた繰り返しただけだった。もちろんそれ自体にも、そして誰にも罪はないのだが、それは確実に二人の間に静かに寝そべるようにして横たわり、時折顔を起こしては話をさえぎってそしてまたパタンと横になってしまう。
 二人はそのままソファに座ってコーヒーを飲みながら、昼までテレビを観た。悠は僕の知らない若いお笑いコンビを見てゲラゲラと笑っていたが、さすがに腹が減ったのかお腹をグルグル鳴らしながら、「お昼なんにする?」と言って体をくねらせた。そうだな、今日は天気がいいからとりあえず出かけるか。それから考えても遅くないだろ。オーケー。
 念のために僕たちはどこに出かけるんだったっけ? ともう一度聞いてみたくなるくらいの長い時間をかけて、悠は洗面所の鏡の前で化粧をした。そのくせ結局顔がほとんど隠れてしまうようなつばの大きな帽子を被るんだ。にわか雨が降るかもしれないから折り畳み傘も忘れないでくれよ。
 僕たちは家を出て歩くうち自然と近所の大きな公園に向かっていた。広場では子供たちが野球をしていた。もちろん本格的にやれるほど広い場所ではないので、規模やルールを適当に縮小した形で楽しんでいるのだろう。僕にはどの部分がどういう具合に変更されているのかよくわからないのだけど。歩道やベンチは友達同士や親子連れで賑わっている。三輪車で走る弟を一輪車で追いかけていたお姉ちゃんがよろめいてお父さんの胸に飛び込んだ。すると弟はそのまま三輪車で走り続け緩い傾斜の先で三輪車もろともひっくり返ってしまい泣き出してしまった。
 「カワイイ」悠はケラケラと笑いながらその子供に向かって片足を後ろに跳ね上げながら両手を使って投げキッスをした。子供はしゃくり上げながらポカンとした顔で悠を見ていた。
 僕は公園の近くにオーガニックショップがあったのを思い出した。悠を連れてその店に入りお昼はそこのバイキングランチを食べることにした。木製のトレイの上に紙を圧縮して成型したいくつもの間仕切りのある弁当パックをのせて、そこに好きなおかずを詰め込んでいく。最後にご飯を玄米と穀米から選んで詰めてもらい、秤の上に乗せて重さを量り値札のラベルを貼ってもらう。僕は玄米を選び、悠は穀米を選んだ。ご飯は何れも同じ値段のはずだが、おかずをパックの蓋が閉まらないくらい詰め込んだ悠の弁当は僕の五割増しの値段になった。悠は他にも化粧水やら石けんやらお菓子やらを買い込んで、五千円以上にもなった会計を済ませた僕を急かしながら弁当を食べる場所を探していた。店先のテラスにも椅子とテーブルはある程度あるのだがあいにくそこは一杯だったので、僕たちは公園に戻り空いているベンチで弁当を拡げた。オクラの天ぷら、鰯のハンバーグと箸を進めていって柔らかく炊けた玄米をほおばる。塩だけで食べる野菜のグリルも美味しい。暖かな日差しに包まれて食べる弁当には柔らかな光が宿り、まるで至福の食事のように見える。僕は最後に残ったキラキラとオレンジ色に輝いている人参のサラダを平らげた。
 僕たちの目の前をいろいろな人が通り過ぎる。僕がこちらに向かってくる乳母車の中の赤ん坊にウィンクをすると赤ん坊はケラケラと笑い出した。母親が驚いたように上から覗き込んでから、隣を歩く父親となにやら話をするとみんなが笑った。その向こうでは一眼レフカメラを首から下げた二人連れの女の子が、あちこちの写真を撮っていた。一人の女の子がこちらにカメラを向けているのに悠が気づいて、箸を持ったまま両手を顔の両側に拡げてピースサインをした。女の子がシャッターを切ったのかどうかよくわからなかったが、カメラを下ろしてから軽くペコリと会釈した。
 僕たちの座っているベンチの周りにはたくさんのハトやスズメが、そしてカラスまでもが一緒になってウロウロしていた。ベンチの後ろでは一羽のハトが変わった声で泣きながら体をくるくると回転させて、別のもう一羽のハトになにやらアピールしているように見えた。するともう一羽体中が真っ白な別のハトがやってきて、同じように泣きながら体を回転させて猛アピールを始めた。やがて相手のハトと白いハトは寄り添うようにして二羽でどこかに行ってしまい、最初のハトは呆然とその場に立ち尽くしていた。それを少し離れた場所で一羽のカラスがじっと見ていた。そのカラスは愛らしい目をしていたが、目と同じくらいの大きさのイボのようなものが目元にぶら下がっていて、その濡れた瞳はまるで泣いているようにも見えた。
 食事が終わると僕たちはカフェに行った。僕はエスプレッソを、悠は抹茶のフラッペを注文した。隣のテーブルにはスーツを着た三十歳くらいの女と学生らしき男が座っていて、テーブル中に資料を拡げて女がしきりに男を説得しているようだった。おそらく何かの教材でも売りつけようとしているのだろう。優柔不断そうな男は時折汗を拭きながら小さく頷き黙って女の話を聞いているだけだった。しばらくして男は席を立ってトイレにでも行ったようだ。女は携帯電話を取りだして話し始めた。僕は足を組んでいる女のふくらはぎにある不吉なくらい大きなほくろを見ていた。まるで女の全てはその暗い穴からずるずると生まれだして、そして結局そこへ吸い込まれて帰って行くような気がした。
 悠がその女とは反対側の二つ向こうのテーブルを見ろと言った。僕が言われた方を見ると、さっきの女より少し年はいってそうだが、白いブラウスに白いロングスカートの女が、少し年下に見える赤いチェックのワークシャツをジーンズの中に入れた男と座って話をしていた。
「あの女、前の仕事場で一緒だったんだけど、すごい嫌われもんだったんだ。とにかく性格が悪いの。だからずーっと婚活してるんだけど未だに一人なんだ。どうやらあの男が今日の標的みたいだね」
 男はがっしりというよりは少しメタボリック気味で、下腹がたっぷりとして顔もパンパンだった。黒縁のメガネの奥にはやけに黒目の大きな目があり、口元からは少し前に出た前歯が男がしゃべるたびに申し訳なさそうに出たり入ったりしていた。女は今時見ない長めのブリッ子ヘアーでメガネはかけていないが糸を引いたように目が細く、口元からは男より前に出た歯がこちらはどうやっても隠れることなく常に露出していた。話は随分と盛り上がっているようで、特に男は大げさな身振り手振りを交え、噴き出す汗を拭おうともしないで夢中で話し続けていた。
「どうやら順調そうだよ」と僕が言うと、悠は不機嫌なアヒルのように唇を結び小さく肩をすくめた。気がつくと隣の席はもう空いていて、あんなにたくさんあった資料を一体いつ片付けたのだろうと僕は首を傾げた。
 カフェを出ると、しばらく二人でショッピング街をウロウロし、その間に悠はメッシュのジョギングシューズと軽めのスポーツウェアの上下を買った。「あなたのも一緒に買わない?」と言われたが遠慮しておいた。理由がよくわからないだろ、と言うと、「別にいいじゃない」と言って少し不機嫌な素振りを見せた。
 夕食のメニューは野菜がたっぷり入ったキーマカレーに決めた。カレーなら二人で二日分の夕食がまかなえるから二日目もたっぷり遊べるからだ。スーパーで必要な食材を買い、レジを通ってから持ってきた二つのエコバッグに買ったものを詰める。二人で一つずつ、僕が重い方を持って並んで歩きながら家に帰った。
 今日のカレーは悠が作ってくれることになった。僕はソファに寝っ転がりチェーホフを読みながら、時折テレビを観た。悠のためにテレビはつけっぱなしになっていた。僕はウトウトとして、いつの間にか寝てしまった。
 何日も降り止まない雨が街の中のあらゆるものを飲み込みながらほんの小さな一点に渦を巻きながら収束していった。それは次元に咲いた小さな一つのほくろのような穴だ。あらゆるものが分解されそこに吸い込まれていく。僕の体も粉々になってその流れに従う。その穴を通過すると今度はたちまち僕の体も他のあらゆるものも次々と再生されていく。しかももとの姿よりさらに美しく、完璧な形となって。そして全てのものが美しく感動的なまでの理想的な配置で再構築されていく。そこでは僕も悠も他のあらゆる全ての人も美しい。キラキラと光り輝く完璧な形の悠が僕にそっと近づいてそっと耳元で囁く――「ごはんできたよ」――。
 カレーは美味かった。僕は珍しくおかわりをして満腹になった。苦しいお腹を抱えてソファでゴロゴロしている僕のところに後片付けを終えた悠が近づいてきてソファの端に浅く腰掛けた。手には何かパンフレットのようなものを持っている。
「今度この近くで区内の公園を回るウォーキングラリーがあるんだけど、一緒にエントリーしない? 楽しいよ、きっと」
「どれくらい歩くの?」
「ざっと十四、五キロくらいかな」
「無理だよ。ウォーキングシューズも持ってないし。そんなに歩けないよ」
「だからさっき買えばよかったじゃないよ、もう。いつもいつもそんな言い訳ばっかりでさ、全然チャレンジしてみようとかそんな気持ちないんだから」
 声の様子に悠の顔を見ると、唇を震わせて僕を睨み付けていてその目には今にも涙が溢れそうだった。
「もう帰る!」
 そう言うとバッグを鷲づかみにしてバタバタと玄関の方に歩いて行った。僕はソファに寝そべったまま、
「おーい、明日のカレーはどうすんだよ」と言った。僕としては僕なりに真剣に引き留めたつもりだった。
「うるさーい! バカッ!」
 玄関のドアがキイッと開き、続いてバタンと大きく閉じる音が家中に響いた。さてどうしたものか。まあ後で電話でもしておけばいいだろう。もうお腹も落ち着いて眠気もなくなった。僕は読みかけのチェーホフを取ろうとソファの前のテーブルに手を伸ばした。その時、伸ばした僕の右腕の肘の内側に直径一センチくらいの真っ黒なほくろがあるのに気がついた。それはかすかに隆起し、よく見ると表面が波打つように蠢いていた。
 雨がまた激しく降っていた。泣きながら飛び出していった悠は大丈夫だろうか? そして雨はあらゆるものを押し流し、収斂を繰り返しながらただ一点に集まっていく――。