スケープゴート2009年07月14日 13時04分24秒

 ある日ポストにマンションの管理組合から一枚の通知が入っていた。

『貴殿は次期(第六期)の管理組合理事に選任されました。付きましては引き継ぎを行いたいと思いますので、来たる三月三日(土)十八時に当マンション一階の集会室までお集まりください』

 このマンションを購入してもう五年になるわけだが、管理組合なんてものの存在はすっかり忘れていた。そういえば入居時に説明があって、区分所有者にて管理組合を組織し当マンションの維持・管理活動を行うこと、その執行役員として選出された理事によって実質的に管理組合を運営すること、理事は区分所有者にて輪番制によって持ち回りとすること等というようなことを聞いたのを思い出した。その順番が今回僕に回ってきたということだ。面倒なことには違いないが、区分所有者としてはやらないわけにはいかないだろう。内心しぶしぶではあったが、まあ仕方ないと自分を納得させた。

 指定された時刻より十分ほど早く集会室を訪れると、そこにはもうすでに何人かやってきていた。見覚えのある顔もいくつかあって、少し安心した。まだ時間にはなっていなかったがもう人数がそろったからということで、理事長であるという男が話を始めた。
「えー、それでは新理事の方々にはですね、すでに我々の方で担当を割り振っていますので、この後それぞれ担当レベルで引き継ぎをお願いします。それでは新しい理事の方のお名前と担当を発表します」
 理事長は手元の資料を見ながら新しい理事の名前と担当を次々に呼び上げていった。
「――で、前田さんが庶務担当、と、以上です」と僕の名前を最後に読み上げてから、理事長は顔を上げ一同を見渡した。
 ――庶務担当?
 訝しげな顔をしている僕の方を理事長が見て、一瞬気の毒そうな顔をしたような気がした。
 現庶務担当は遠山という男で、がっちりした体で色が黒くて体毛も濃いのだがひどくやつれた印象で、顔にはシミが目立ち目は焦点が定まらず、どこかに生気というか魂を置き忘れてきたようだった。僕と遠山は二人でテーブルに向かい合わせに座ると、遠山は仕方ないといった風にポツリポツリと話を始めた。
「えー、実はですね、このマンションが建つ前にここに一軒の家がありましてね。そこには年老いたおばあさんが一人で住んでいたんですが、彼女は何といいますか呪術師とでもいいますか、いえ、私もよくは知らないんですがね、そういった方でして。土地を売却する際の条件として、その後に建つマンションがですね、いわゆる平穏無事であるようにご祈祷をさせろということでして――」
 遠山はふうっと一息ついて、自分の魂がどこかに抜け出していないのを確認するようにあたりを見回してから続けた。
「当時はなにぶんマンションブームでして、新規物件が建てば飛ぶように売れましたし、おまけにここは立地もよかったもので建築会社もその条件をのんでしまったというわけでして。ですからこのマンションは今でも月に一回おばあさんにご祈祷をしてもらっているんですよ。もちろんきちんと祈祷料を払ってね」
 今度は遠山はやれやれこれで肩の荷が下りたといった風な安堵の表情を浮かべ、僕に媚びるような目をした。
「ご祈祷なんてどこでやるんですか? 毎月そんなことをやってたらかなり目立つでしょうに」僕が訪ねると、
「実はこのマンションには秘密の入り口から降りていく地下室があるんですよ。そこが祈祷室になっています。おばあさんは新月の深夜になるとそこでご祈祷をするんです」
「ふんふん、それはよくわかりましたけど、それとこの我々の庶務担当の仕事とはどういう関係があるんです?」
「ですから、そのおばあさんのご祈祷のお手伝いをするんですよ。ただし祈祷室に入ることが出来るのはおばあさんだけですから、ご祈祷中にどうこうということはありません。重要なのはその準備作業ですね」
「準備作業?」
「はい、おばあさんのご祈祷にはいわゆる生け贄が必要なんですよ」
「い、生け贄ですって? ま、まさか……」
「いえいえ、いくら何でも今時こんな街中で人間を生け贄になんて出来るわけがありません。動物でいいんですよ。ただし昆虫や爬虫類といったようなあまり小さな動物ではだめです。手近なところではやはり犬、猫でしょうかねぇ。それをご祈祷の一週間くらい前に捕まえて、祈祷室の前の檻に入れておくんですよ。一週間おくのはその間飲み食いをさせず生け贄を清めるという意味合いがあります。これが大きな毛並みのいい犬なんかだとおばあさんもかなり喜んでくれるようですよ」
「……」
「それとご祈祷が終わった後の生け贄の死骸の後始末ですかね。おばあさんが帰った後、祈祷室の前に死骸が転がってますから、それをマンションの北西に小さな焼却炉があるでしょ? そこに持って行って焼くんです。それでおしまい。それが我々庶務担当の仕事の全てです」
「そ、そんなことをこのマンションでは五年間もやってたんですか?」
「いえいえ、もちろん気持ち悪いだの馬鹿馬鹿しいだのということで、何年か前にしばらくご祈祷の用意をしなかったことがあるらしいんです。そうしたところ、たちまちマンションの外壁のあちこちにヒビが入ったり、雨が漏ったりして大規模な補修工事が必要になりました。エレベーターもしょっちゅう故障するようになりましたしね」
「補修工事って、あれは確か手抜き工事の補修ってことでしたよね? エレベーターもメーカーのリコールになったんじゃないんですか?」
「それがそうではなかったんです。もちろん因果関係は証明できませんが、全てはおばあさんのご祈祷を拒んだからなんです。実際それからご祈祷を再開してもらってから今までこのマンションには全く問題は起きていません。ゴミを出す日を守らない人がいたり、ペットにエレベーターで粗相をさせたりといったことすら一度もありません。全てが全く平穏無事なのです」
「……」
「そういうことですから、前田さん、これから一年間よろしくお願いしますね」
「……仕方ないですね。そういうことでしたらなんとかやってみましょう」
「一応詳細なマニュアルはここにありますから、次のご祈祷の日までによく読んでおいて、忘れずに一回目の準備をお願いしますよ」
 遠山は目の前に置いた薄いファイルをポンと叩いて言った。
「わかりました」
 気がつくと、集会室は僕と遠山の二人だけになっていた。遠山は慌てて立ち上がり、「それじゃ」と言って忙しなくお辞儀を何回もしてから部屋を出て行った。
 僕は一人になった集会室で両手を拡げて肩をすくめ、ハアッと声を出してから首をぐらぐらと揺らした。僕は抜き差しならない状況に追い込まれた。担当を変えてくれるように理事会に諮ってみるか。いやいや、こんな役他に引き受け手がいるはずもない。じゃあ何で僕が? 日頃のマンションの管理業務への無関心さを見透かされて厄介な仕事に回されたのか? いや、ひょっとしておばあさんのおぼし召し? まさか!

 人生に於いてどうしても向き合わなければならないものが出来た時に多くの人がそうするように、僕は何もせずただぼんやりとしたままそれからの何日かを過ごした。そして諦めたように机の引き出しにしまい込んでいた遠山から引き継いだファイルを取り出した。
 マニュアルには過去五年間とこの先五年間の新月のカレンダーが入っていた。それによると次の新月の夜は三月十五日だ。もうあまり余裕がない。僕は同じくマニュアルを頼りに、集会室の隣にある倉庫の奥から生け贄捕獲用の道具(大型ネット、麻酔銃、暗視スコープなど)を持ち出した。
「一体何なのよ。これは? 今から猛獣狩りにでも出かけるつもり?」
 リビングに拡げられたいかにもただならぬ気配を振りまいている道具たちを見て、妻が驚いて言った。もちろん隠し通せるわけはないし、嘘もつけない。もっともそんな必要はないんだけれど。僕は全てを妻に話した。妻は一応納得してくれたようだが、どうやらまだ半信半疑のようだった。ただ、好きにやってくれていいが決して私を巻き込まないでくれ、と言った。
 僕はマニュアルに従って、それぞれの道具の使い方を一通り習得した。麻酔弾は今年の分が補充されたようでたっぷり五十発はある。暗視スコープのバッテリーも充分だ。僕はミリタリーショップで買ってきた全身黒ずくめの戦闘服に身を包み、顔にカモフラージュのためのペインティングをして、ある日の深夜生け贄の捕獲に出かけた。
 ある程度の捕獲エリアと捕まえることの出来る動物の種類はマニュアルに参考程度には載っていた。初心者であることを考えるとやはり最初は大きな公園で猫かなんかを狙うべきだろう。僕は普段よく行く公園でいつもたくさんの猫がたむろしている場所の近くに陣取り様子を伺った。しばらく待っていると、草むらの影から一匹の黒猫が現れた。深夜であたりは真っ暗だ。猫も特に警戒している様子もなく、低い木の切り株の上に飛び乗るとそこで寝そべった。僕は音を立てないように少しずつ射程距離まで近づいていき、麻酔銃を構えるとスコープの中で緑色に浮かび上がった猫の腹をめがけて引き金を引いた。猫はギュッという小さな声を上げて飛び上がり、慌てて逃げようとして走り出したが十メートルも行かないうちに体が動かなくなって、歩道に続く芝生の上で静かに横になった。僕はゆっくりと猫に近づくと、麻酔弾を抜いてやってから、麻袋を取り出して暖かい猫の体をそっとその中に入れた。
 マンションに帰ると、自転車置き場と集会室の間のドアを開け、さらにその通路の途中にある小さなドアを専用の鍵で開けて中に入った。祈祷室への入り口だ。そこは細長く狭いコンクリートの壁で囲まれた空間で、左側の中央にそれこそが祈祷室へと続くであろうと思われるドアがあった。僕はそのドアの鍵は持っていないので見ることが出来るのはここまでた。僕はその空間の奥にある大きめの檻を開けて、麻袋に入ったままの猫をその中にそっと置き、檻を閉めた。そして来た道を戻り、倉庫に寄って道具を全て片付けてから家に帰った。
 新月の夜が過ぎ、僕は再び深夜祈祷室へと続く部屋に行った。檻の前に生け贄の亡骸が入っているはずの麻袋が無造作に転がっていた。どうやら本当に生け贄を使った祈祷が執り行われたらしい様子に、僕は改めてゾクッとした。麻袋を拾い上げるとそれは驚くほど軽かった。確かに何かが納まっている気配はあるのだが、それは不思議なくらい、ふわりと宙に浮くほどに軽かった。しかし中を開けてまで確かめてみる気は起きなかった。
 僕はそのまま焼却炉に向かい、麻袋を放り込むと、点火した。僕は近くにあったパイプ椅子に腰掛けぼんやりと焼却炉を見ていた。数十分が経ってそろそろ焼き終わろうかという頃、少しうとうとしていた僕は目映いばかりの光で目が覚めた。見ると焼却炉全体が息づくように収縮しながら黄金色に光り輝いていたのだ。やがて光は次第に弱くなっていき鼓動のような収縮も治まっていった。そしてそれはいつもの赤銅色の焼却炉になった。
 それから僕は新月の夜が近づくたび、生け贄の捕獲に出かけていった。動物もある時は野良犬だったり、車で山に入ってイタチやタヌキを捕まえることもあった。僕もだんだんと慣れてきて、楽しいとまでは言わないもののある種の透明な意識を保ったまま捕獲作業にあたることが出来るようになっていた。そして生け贄の亡骸はいつもふわりと軽く、焼却炉は黄金色に輝きながら律動した。僕は自分が次第に軽く透明になっていくような気がしていた。

 一年が経ち、僕は庶務担当を京野という男に引き継ぐことになった。僕よりも年配で禿げた頭頂部と意地悪そうな顔をした京野に、一年前の遠山と同じように一部始終を説明していった。京野は驚き、唸り声をあげながら僕の説明を聞いていたが、最後はどうにか納得してくれたようで引き継ぎは無事終了した。
「京野さん、これから一年間よろしくお願いしますね。詳細なマニュアルはここにありますので、一回目の準備を忘れずにお願いしますよ」
 僕はマニュアルの収められたファイルをポンと叩いて言った。
 その時初めて知ったのだが、遠山はもうすでに引っ越しをしてこのマンションからいなくなっていた。引き継ぎをやってしばらくのことだったらしい。何故か僕は無性に遠山に会って話をしたい衝動にかられた。

 この一年間で僕の中の何かはすっかり損なわれてしまったようだ。でもそれが一体何なのか、それが僕にとって一体どういう意味を持つのか、今でも何一つわからない。しかし僕は今でもその自分の中の損なわれてしまった何かを取り戻そうと密かに闘っている。日々僅かずつの新たな犠牲を払いながら。