インディアンサマー2009年10月09日 00時17分48秒



どしゃぶりの雨の中を君はやってくる。傘もささずに花から花へと舞う蝶のように軽やかに、キャベツをはむ青虫のように夢見るように。君は雨に濡れるわけでもなく、雨も君を弾かない。気がつくと君は僕の目の前に立ち、涼しい目元と鈍い光の口元で明日の天気を聞く。僕がゆっくりと首を振ると、君は目を伏せて長い髪が流れた。僕は君の手を取り、昨日への道を走り出す。未だ雨の降らない所へと戻り、君の頬は陽の光に赤らむ。柔らかな息を吸い込んで膨らんで、君の小さな胸は張り裂けそう。僕の心も高鳴って弾んで、君を捕まえたいのに足もとがおぼつかない。君は笑う。僕も笑う。僕たちはくるくると回転する。僕の手が君の胸に触れると、それは石のように堅く、力を入れるとぽろぽろと崩れた。すると君の笑顔も、細い肩も、小さな爪の先も、あっという間に壊れてなくなった。僕の手は空をつかんだままそこに漂い、僕の口は甘く小さな声を漏らして震えた。




 夏の夜によく夢をみた。吐き気をもよおして目を覚ますと、喉の奥からざらざらとなにかが蠢いて這い上がり、外に出てくるとそれは大きな蜘蛛だった。蜘蛛は何匹も何匹も、後から後から湧き上がり、あうあうとうめく喉をかきわけるように、次から次へと這い出していった。やがてあたりは黒く蠢く蜘蛛の大群で埋め尽くされ、床から壁を伝って、蔦が下から上へ生えるように天井へと拡がっていった。部屋中でまるで遠い彼方に浮かぶ星の乾ききった地表に初めて降り注ぐ雨のような音がしていた。
 僕は起き上がると、裸足のまま、地団駄を踏むように、床一面の蜘蛛を踏み潰していった。ひとしきり踏み潰すと、今度は壁を這い伝う蜘蛛を両方の手のひらで叩き潰した。僕の体は葡萄を房のまま潰したように紫色の汁で染まり、床も壁もその汁をぶちまけたようにヌルヌルと黒く光っていた。
 僕は天井に近い蜘蛛を追って手足をバタバタさせているうち、足の裏がなにもない壁にピタリと吸い付いた。今度は両手を伸ばしてみると、手のひらがペタリとやはり壁に貼り付いた。僕はスルスルと壁面を自由自在に動き回り、壁と天井の蜘蛛をあらかた退治した。僕は天井に逆さまにぶら下がっていた。
 するとまた吐き気がした。ネバネバした口の中からなにかが激しく震えながらせり上がってきた。勢いよく吐き出すとそれは一筋の白い糸になり、その先端は壁のある一点に接着した。僕は口をモグモグと動かしながら、次々とあらゆる方向に糸を吐き出し、あっという間に空間に浮かぶ糸のハンモックが出来上がった。僕はその真ん中に這いつくばり、細く節くれ立った前足を丁寧に舐め上げた。僕は幸福だった。


メープルシュガー

 店の中はメープルシロップの香りがした。僕は小さな貝の形をしたマドレーヌと薄くスライスされたパウンドケーキ、いくつかの焼き菓子を選び、二つ同じ組み合わせで箱に詰めてもらった。妻はショーケースの前でロールケーキやらシュークリームやらを物色している。そこで少なくとも賞味期限内に二人で食べきるのは絶対に不可能な量のケーキを注文している妻に会計を任せて、店内をぶらぶらと見て回った。奥の陳列棚でクッキーでできた季節外れのサンタクロースのデコレーションの隣に、小さな瓶に詰められたメープルシュガーが置いてあるのが目にとまった。僕は瓶を手にとって匂いを嗅いでみたり、高く掲げて光に透かしてみたりしてから、少し考えて、妻に近寄り、これも、と言って手渡した。妻は土産にもらった星の砂の小瓶でも眺めるような虚ろな目で、その瓶と僕の顔を何度も見比べていた。そして大きく開けたままの口でハァッとため息をつき、メープルシュガーの瓶を無造作にレジのカウンターに乗せた。
 妻は運良く連休に絡めて長めの休みを取ることができたので、数日帰省することになったのだ。妻方の親類には春先から大小さまざまな不幸が続いており、両親や未だ健在でいる祖母はこのところすっかり参っているようで、そんな状況で万一健康を損ねてしまうようなことにならなければ、と僕たちも気にしていたところだった。
 僕は連休中もほとんど休むことができず忙しく過ごしていたので、ふと気がついた時にはもう妻は故郷から我が家に帰ってきていた。妻の話では故郷の寂れ方はこのところそのスピードをさらに上げてきているらしく、あちこちが更地だらけになって、街を歩く人も滅多に見かけず、たまに古ぼけた軽自動車が交差点の点滅信号をためらいながらゆっくりと通過しているくらいなのだそうだ。気にしていた祖母もそんな街に似てあまり元気がなく、妻の顔を見ても喜ぶどころか妻が帰ってしまい自分が取り残される日のことを考えて余計に沈んでしまったらしい。そう寂しそうに話す目の前の妻も、まるですっかり生気を失ってしまっているように見えた。
 僕は台所に立ち、二人分のコーヒーを淹れた。ふと戸棚の隅にこの間買ったメープルシュガーの小瓶を見つけた。いつもはブラックで飲むコーヒーにメープルシュガーを沈めて、ゆっくりとスプーンでかき混ぜてみた。甘く清々しい香りが立ち上り、妻はカップを祈るように両手で挟みながらコーヒーをすすると、ハアッと息を吐いて、なにも言わず歯を見せないで笑った。それほど見栄えのしない僕たちの日常ではあるけれど、ふとした小さなきっかけで――もちろんそれはまったく意味もないくらい本当に僅かなことなんだけど、こうやって簡単に揺らしてみることができるんだ、ということに気がついたんだろう。


蜘蛛男

 僕は蜘蛛になった。スパイダーマンもびっくりだ、いやカフカか。仕事は続けるつもりだけど、どうやら結婚はできそうもない。上司も気味悪がって僕に近づかないから、嫌な仕事を押しつけられることもない――もっともすぐに地下の倉庫番に回されちゃったけど。体は綺麗なストライプだから割と女の子には人気がある。気に入った子がいればいつでも口から糸を吐いてグルグル巻きにして好きなところに連れて行ける。そして思う存分女の子の体を楽しむんだ。いや、まあ僕は今はこんな体ではあるけどね、正直なところ前よりもずっと女の良さがわかるようになった気がするよ。見てごらんよ、このグルグル巻きの体を。脱がせる楽しみだって倍増だろ。女の子だってたまらないさ。さんざん焦らされた挙げ句、僕のネバネバした口で体中を舐め回されるんだから。とどめはこの僕の綺麗で形のいい太い体さ。これでイッちゃわない女なんているわけないだろ。
 だけど蜘蛛になんかなっちゃったもんだからいわゆる普通のデートってのはできないんだけどね。酒も飲めないし、ご飯も食べられないし、っていうか、まずおおっぴらに外を歩けないから! 昔は甘いものが大好きだったんだけど、蜘蛛になってからの僕の好物は何といってもウスバカゲロウだ。あの蟻地獄の成虫だよ。蟻地獄って、ほら、すり鉢状の砂の下で待ち構えていて、落ちてきた蟻とかを食べちゃうやつ。でもさすがに都会ではなかなか手に入らないんだよ。特に新鮮なやつはバカみたいな値段が付いてておいそれと手が出せるようなもんじゃないんだ。昼間の給料だけじゃ足りないから今は夜警備のアルバイトもやってるんだよ。もちろん悪い奴らは僕の糸でグルグル巻きさ。そうして稼いだ金で僕はウスバカゲロウを買う。え? 女にたかればいいのにって? 蜘蛛である僕は女には金を使わないけど、女の方だって蜘蛛である僕に金を使う理由なんてまったくないから、これはお互いさま、実にクリーンな関係だ。じろじろと物欲しそうに僕の体を見ている昆虫の業者からウスバカゲロウの入った袋を受け取ると、僕は家に帰り部屋に張ってある大きな巣にウスバカゲロウを一斉に放す。するとウスバカゲロウたちはすぐに糸に絡まって動けなくなるから、僕は巣の上を素早く移動してバタバタしてるやつを次々に平らげていく。とにかくこの生きているウスバカゲロウの味は最高だ。体の奥から痺れるように力が漲り、疲れなんかどこかへ吹っ飛んじゃうんだ。そしてまた女が欲しくなって、もっとウスバカゲロウを食べたくなる。これさえあれば他にはなにもいらない。もっといい女を抱いて、もっといいウスバカゲロウを食べなくちゃ。それにはもっともっと金が要る。僕は警備のアルバイトに加えて、深夜の工事現場でも働くようになった。もちろんここでも鉄骨をグルグル巻きさ。
 僕は地下の倉庫の片隅に作った巣の上で、なんとかウスバカゲロウが養殖できないものかと文献をあたっていた。自分で育てられればもう少し楽になるだろうし、うまくいけば他の蜘蛛仲間にも売りさばけるかもしれない――まあそんな奴がいればの話だけど。しかし連日の深夜にまで及ぶ仕事の疲れか、このところウスバカゲロウにありついていないせいか、僕はついウトウトとそのまま寝込んでしまった。その時巣の下にある机のパソコンは一通のメールが届いたことを知らせていた。それは午後から地下倉庫の害虫駆除を行うという旨の総務通達だった。


インディアンサマー

 十月も過ぎ、十一月も半ばだというのに、昼間は九月頃の残暑というか真夏の暑さがそのまま続いていて、この時期エアコンの入らないビルの中ではうだるような暑さが渦巻いていた。しかしその代わりというわけではないだろうが、夜になると今度は真冬のような寒さに襲われた。一日の気温の高低差が実に四十度近くになる日もあった。
 朝、家を出る時はコートを羽織っているが、電車に乗る頃にはコートを脱ぎ、会社に着く頃には上着を脱ぎ、席に着くとネクタイを外しシャツの袖を二の腕高く巻き上げるのだ。卓上に据え付けた大型の扇風機のスイッチを入れ、鞄から冷たい麦茶の入った大きな保温ボトルを取り出して机の上に置いた。
 大判のフェイスタオルで汗を拭き拭き、ふうふうと言いながらなんとか一日の仕事を終える。来た時とは逆の順序で服を着込み、コートにくるまって震えながら家に帰る。家では暖かな料理の湯気の向こうから妻の笑顔が迎えてくれる。かなり冷え込んだ昨日の夜中に水道管が破裂して、昼間あちこちで噴水のように水が噴き出し、子供たちが嬉しそうに裸になってはしゃいでいた。以前は猫を飼っていたが、昼間冷房を入れるのを忘れて出かけてしまい、帰った時には熱中症で死んでいた。夕方には太陽がもう二度と戻ってこないんじゃないかと思うほどの地平の彼方に沈むのに、気がつくと昼間には頭のすぐ上にのしかかるようにしてギラギラと輝いていた。
 一体これがいつまで続くのかわからないが、意外と慣れてしまうものだという気もする。しかし僕が恐れているのは気候の不順だけではない。どうやら僕たちはこの天候のせいで今まで持ち得なかった感覚、言ってみれば冷徹な高揚感とでもいうべき感覚に浸食されはじめているような気がするのだ。この今まで僕たちが感じたことのない感覚を無意識にでも自覚した時、僕たちのシステムを支える歯車のうちのまずは一つの歯が欠け、そしていくつかの歯車が抜け落ち、やがて全てが崩れ落ちてしまうんじゃないだろうか。
 このところ僕はどこがどうというわけではないが、妙に妻の態度が鼻につくようになり、ある日些細なことでついに妻を殴り、挙げ句に何度も蹴りつけてしまった。すると妻は大声で泣き叫びながら、猫は鳴き声がうるさくてたまらず、イライラして私が踏みつけて殺してしまったのだと言った。