6月の雨の理髪店2010年07月02日 11時11分22秒

「痛くないですか?」
 不安げにたずねる僕に担当の歯科医は「ええ大丈夫、思っているよりは痛くないですよ」とブツブツがいっぱいある小さな顔を少し傾げて微笑んだ。メガネ以外まったく印象に残らない、向こうが透けて見えるような妙に儚げな助手に視界を閉ざされ、さらに口のところだけ穴の空いた布で顔全体を覆われた。
 ありとあらゆるガラクタを目一杯口の中に放り込んでからまたそれを一つずつ引っ張り出されているようなオペが終わり、血だらけになった口の中を(ここだけはひどく繊細に、たっぷりと時間をかけて)縫い合わせてから、にっこりと「大丈夫ですよ」といいながら目で笑う歯科医と助手に送り出されてから一週間、ようやく抜糸の日がやってきた。
 その日は雨だった。梅雨なのでもちろん珍しくもない。ふと抜糸に適した天候といったものがあるとしてはたして梅雨の季節、雨の日というのはどうなのだろう、と考えた。
 前回よりはいくらか存在感を増した助手のリアルな手によって、あり得ないようなところから突き出していたり(あるいは差し込まれていたり)、歯の根元でグルグル巻きにされていたりしている糸が取り除かれていった。抜糸が終わると抜いたところ全体を消毒してから手鏡を僕に無理矢理持たせ、拡大されて醜く膨らんだ僕の顔の大きな口を開けさせて、見たくもない抜糸のあとを見せた。助手は「ほうら、きれいに取れたでしょ?」と嬉しそうに笑ってから、目を細めてしかめ面をしている僕の手から手鏡を取り上げた。
 歯茎は相変わらず穴ボコだらけだったが、それでもたったこれだけ(糸が取れただけ)のことでも随分と開放的な気分になるものだ。僕はなんだかこのまま家に帰る気がしなくなり、少し早い(まだそれほど伸びているわけではない)が散髪に行くことにした。散髪こそ雨の日にやることとしてふさわしいことのような気がしたからだ。梅雨の季節、開け放したドアから流れ込む湿気の匂いと雨の音、汗のにじむ首筋や額に濡れたはさみが触れ乾いた音を立てる。大きな鏡に白いタイル、カミソリを研ぐ音やひげ剃り用のクリームを泡立てる音がして、店の中は底冷えするような清潔さに満ちている。軒下ではくるくると螺旋状に回転するトリコロールの柱状看板が、目を回して倒れそうになるのを必死にこらえながら立っている。
 電車で一駅移動して、改札を出てから目の前の信号を渡り少し歩いた角を曲がった。よろよろの看板がなんとか回転しているのを確かめ開け放たれた入り口のドアを覗き込むと、主人が鏡の前に立って腰に手を当て体を左右にひねっているのが見えた。どうやら客は誰もいないようだ。
「運動ですか? それとも腰が痛いの?」
 僕が訊ねると主人は苦笑いしながら僕に席を勧めた。一旦何かを取りに行ってからまた戻ってくると、小さな声で「運動。最近ちょっと太っちゃってさ」と言ってまた腰を小さく二、三回ねじった。
 外の蒸し暑さで汗だくになって入ってきた僕を見て、主人はすぐに入り口を閉めてエアコンを入れてくれたので、雨の音を聞きながらの散髪とはいかなくなったが正直これはありがたかった。体中の汗が冷たくなって皮膚から染み込むように引いていった。
 僕がこの理髪店に通うようになってもう十年になる。今はここからまた一駅離れたところに住んでいるのだが、引っ越してからも二ヶ月に一度電車に乗ってここにやってくる。それだけいい理髪店というのは自分にぴったりのランニングシューズと同じくらい貴重だということだ。ようやく巡り会えたどこまでも鳥のように走れる一足から簡単に他の凡百のシューズに乗り換えるわけにはいかないのだ。
 主人は僕の髪を丁寧に濡らすと、いつものように何も言わずにハサミを滑らせ始めた。シャクシャクと小気味いい音が白い店内に響く。後頭部や側頭部をバリカンを使わずにハサミだけで短くきれいに刈り上げる。主人の動きはリズミカルで無駄がない。まるで僕の頭を手で撫で回すみたいにハサミを滑らせていたかと思うと、彫刻家のように少し離れて全体を見渡してはおもむろに近づき、小さな音を立てて数ミリの毛を数本刈り込んだりする。
 最後に頭頂部を全体に梳きバサミで軽く梳いてから、小さなほうきのようなブラシで細かい毛を払い落とす。それで終わり。最後に「どうでしょう?」などと僕に確認することもない。僕もここで鏡を見て仕上がりをチェックしたりすることはないが、誰も見ていない鏡には完璧な形に刈られた僕の頭が写っているはずだ。
 いつの間にか奥さんも出てきていて、僕の顔をあたってくれた。蒸しタオルで膨らんだ顔に雲のようなひげ剃りクリームを塗る。冷たいカミソリが微かな緊張をはらませながら皮膚をグリップし、クリームを削ぎ落としていく。いつものようにカミソリによる痛みは全く無く、それでいてまるで皮膚を一枚きれいに削ぎ取ったかのようにツルツルに剃り上がった。
 会計を済まして、レジの脇に置いてあるサービスのガムや飴が入った小さなカゴからレモンのど飴を取って口に放り込んだ。主人が入り口のドアを開けて待ってくれている。僕は傘を構えながら身をかがめて外を覗き込む。相変わらずのひどい雨だ。主人がとなりで同じように空を仰ぎ見ながら「こりゃ明日も降るね」と言った。
「ほんとに?」と僕は意味もなく大げさに訊いた。「ああ」と主人は深く確信に満ちた声で応えた。
 駅に向かいながら、僕は口の中で転がしていた飴をふとそんなつもりもなく噛み砕いた。下あごに痛みが走り、少し血の味がした。飴は砕け散ったガラスのように僕の口内のあらゆる場所に入り込み、ギシギシと軋みをたてた。