7F2007年04月20日 11時58分34秒

 エレベーターのドアが開くと、真っ白な光がドアをこじ開けるように飛び込んできて、エレベーターの中で渦を巻いた。純白の視界にしばらく動くことが出来なかった僕は、僕を促すように閉じかけたドアを慌てて押さえながら外に出た。
 エレベーターを降りて右側をさらに右に曲がって奥まったところにそのクリニックはあった。クリニックの中は取って付けたような平板で安っぽい清潔さに溢れ、ストリングスがヘイ・ジュードを控えめなボリュームで奏でていた。
 くせっ毛の頭にやはり平板な表情をした医者は、しかし自信に満ちた表情で「片頭痛ですね」と診断を下した。
「何回か通ってもらって神経ブロックをすれば、かなり良くなると思いますよ」
 血液検査をするからと血液を採取された。看護師は僕の腕に何回も針を刺しながらようやく採血を終えた。看護師はどういうわけだか得意げな顔をして、血液サンプルをまるでリスが木の実を隠すようにそそくさとケースに収めた。X線検査の結果MRI検査をするように勧められ、申込書を手渡された。頚部にどこか変形があるらしい。
 ようやく神経ブロック治療が始まった。喉元に麻酔薬を注射するのだ。首が少しチクッとした後、針の先から溶けた鉛のような熱いものが注ぎ込まれ、体の中に次第に広がっていった。やがて熱は甘美な痺れとなり、僕を癒すために体を駆け巡っていた。
 治療が終わると血圧低下などの異常が起きないかチェックするために、しばらくベッドに横になる。痺れが広がるにつれ痛みはだんだんと薄くなっていった。
 三十分後、僕は起き上がると看護師に大丈夫、と告げて待合室に戻った。何故か来た時に感じた平板な印象はすっかり消え失せていて、受付のカウンターも壁も長椅子も、全てが艶めかしいくらい清潔で生き生きとした輝きに満ちていた。ストリングスはナイト・アンド・デイをウィーン・フィルのような音色で奏でていた。
 クリニックを出るとエレベーターに向かう。痺れが広がるにつれて痛みもほとんど薄らいだ。これでとりあえず妙な幻覚を見ることもないだろう。僕は安堵しながらエレベーターホールへのコーナーを曲がった。
 しかしそこには並んでいるはずのエレベーターのドアはなく、のっぺらぼうの壁が二つ向き合って黙りこくっているだけだった。僕はその壁が迫りくる狭間で、ただ途方に暮れて立ち尽くしていた。

4F2007年04月20日 11時54分48秒

 目の前に透明な薄い膜のようなものが張っている。その膜にろ過された風景の粒子だけが僕の網膜に結像し、オフィスの中を薄っぺらなゼリーのように見せた。
 頭の中が誰かの手でかき回されているみたいに痛い。痛みは心臓の鼓動に同調するように拍動している。
 モニターの文字がぐにゃりといびつに歪みはじめ、それはやがて蠢くように画面中をてんでに這いずり回った。色はまだらに滲み、揺らめくように流動している。
 マウスが突然モニターの上に飛び上がり、ケタケタと笑うように左右のボタンがせわしなくカチカチと音を立てた。キーボードのキートップは全てが飛び上がるように浮き上がったかと思うと、あちこちに飛び散っていった。
 ――・・・あ・・・き・・・えは・・・が・・・い・・・ぷ・・・でさ・・・じぶ・・・も・・・ 
 音は激しく強弱を繰り返し、意味のある言葉とならないうちに僕の鼓膜を揺らして通り過ぎていった。
 光も光の速度で進むことを止め、音と同調しているように見えた。音にあわせて時折刺すような光が目に飛び込んできて、くらくらした。目を閉じても耳を塞いでも、音も光も弱まるどころか更に細かな振動を繰り返しながら僕を揺さぶっていた。
 でもこれはいつものことだった。例の発作なのだ。机の上を逃げ惑う受話器をようやく捕まえると、同じビルにあるクリニックに電話をして予約を入れた。
 妙にぐにゃぐにゃした感触のデスクや壁をつたうようにして廊下に出ると、壁づたいにエレベーターホールに向かった。
 いつもは三つあるはずのエレベーターのドアが、数え切れないほど重なり合うようにして僕の行く手に少しブレて揺れながら佇んでいた。
 焦点の定まらないボタンの一つを押すと、頼りなげに微かな手応えがあり、しばらくするとほぼ目の前のドアらしきものがいくつか開いたように見えた。
 その中の一つに乗り込むと何故か振動はピタリと止まり、エレベーターの中はしんと静まり返った。クリニックのある階のボタンを押すと、音もなくドアが閉まると同時に照明が落ちて、エレベーターの中は真っ暗になった。
 闇の中で階数表示だけがゆっくりと進み、エレベーターが上昇していることを示していた。