無花果(1) ― 2007年03月02日 15時47分16秒
昨日の夜からずっと降り続いている雨は、昼近くになっても一向に止む気配を見せなかった。窓から差し込む淡く湿った光が部屋中に拡がり、僕たちのため息のように行き場もなく澱んでいた。
僕の横でリカは窮屈そうに寝返りを打った。僕はひじを付いて頭を支えた格好のままリカの体に布団をそっとかけ直し、目の前でなだらかなカーブを描いている腰に収まりよく手を当てた。時計は十二時十五分前を指していた。
リカは目を閉じたまま口をひねったかと思うと体をくるりと反転させ、僕の腕の中に転がり込むように向き直った。リカも僕も裸ではなくそれぞれ下着だけを身に着けていた。僕はそのままリカを抱きしめるわけでもなく、相変わらず腰に手を置いたままだった。抱き寄せるわけでもなく、突き放すわけでもない。リカもそれ以上体をすり寄せたりせず、離れていくこともなかった。
「やっぱり駄目だったね、ユウ」
リカは当たり前のことを再確認するかのように、壁を見ながらポツリと言った。
「うん」
僕も間を埋めるために、リカと反対側の壁を見ながらとりあえず返事をした。
「それじゃあ、私、午後から講義があるから」
そう言うとリカはもう一度反対に転がって起き上がると、ベッドに腰をかけて足元に散乱した服を一つずつ拾い上げながら身に付け始めた。
リカのくっきりと浮き上がった背骨はなだらかに隆起と陥没を繰り返していたが、やがて服に覆われて見えなくなった。肩甲骨あたりにある二つのホクロも、左の肩にある赤く盛り上がった傷跡もやはり見えなくなった。
「何か食べる?」
下から見上げたリカはもうすっかり仕度が出来ていて、何故かほっとしたような表情にも見えた。
「うん……いい、時間ないから」
パンツだけの格好で見送る僕に、玄関でバタバタと靴を履いていたリカはそのままキスもせずに出かけていった。
ドアがバタンと閉まり、リカの姿は見えなくなった。僕のまわりを徐々に白いもやが覆っていってやがて何も見えなくなった。
*
リカと僕は幼なじみで、田舎に住んでいた頃からよく一緒に遊んでいた。夏は毎日のように海で泳ぎ戯れ、秋には森の中を探検して歩き、野生のアケビや木イチゴを採ったり、洞穴を見つけてその中で遊んだり採ってきたものを食べたりした。
僕たちは二人で居るのがとても好きだったが、恐らくそれはお互いの家庭環境が似ていたせいもあったのだろう。
僕の両親は僕が物心つき始めた頃に離婚し、母親と二人になった僕は一年後新しい父親と暮らすようになった。父親は何かにつけてすぐ手が出る性格で、酒に酔っては母親と僕に暴力を振るった。更に悪いことにこの父親は僕を性的興味の対象としても見ていて、実際僕をその通りに扱った。母親の留守を見はからい、僕の肛門やペニスを弄くったり舐め回したりしては反応を楽しんだ。僕にも父親に同じことをするように強要され、嫌がればまた暴力を振るわれた。そしてこの儀式は僕が精通を迎える頃まで続いた。
リカの両親は離婚こそせず暴力も振るわなかったものの、ある日昼寝をしていたリカが目を覚ますと、下着を脱がされ拡げられた股の間に実の父親の頭が動いているのを発見することになった。以来リカが高校を卒業するまで、父親は母親の目を盗んではリカを性のおもちゃとして扱い続けた。リカは初潮を迎えた頃には既に父親によって女にさせられていた。
僕たちはお互いのそんな境遇を打ち明けあい慰めあえる唯一の存在だった。
僕たちが中学に入った頃だろうか、僕たちは森の中の洞穴で裸になって抱き合った。僕たちはそれまでお医者さんごっこすらしたことがなかったが、その時は何故かそうしなければならないような気がしたのだ。僕が家の物置から持ってきた古い毛布を敷くと、その上で二人とも黙ったまま服を脱ぎ始めた。
リカの体は細くて薄くてとても頼りなげだったが、ところどころに薄赤く刻まれたすり傷と、そこだけ不釣合いに逞しく張り出した腰がリカの体に匂い立つような生々しさを与えていた。
僕たちは一糸まとわぬ姿になると毛布の上で横になった。
「ユウくん、細いね」
リカは僕の脇腹に手を当て、肋骨の数を数えるように指でなぞった。
僕はリカの腰のくびれに置いた手の吸い付くような馴染みのよさに感動して、それをリカに告げるとリカは「ふふっ」と笑って腰をよじった。僕はそのまま脇腹から大腿にかけてゆっくりと何度も手を往復させた。そして臀部と陰部をさすると胸の小さな隆起に手を当てて、色づいてほころびかけている蕾を指で確かめた。
リカも僕の脇腹から腰を撫でるようにさすったり乳首を指で引っ掻いたりした後、僕のペニスを暖かな手でそっと包んだ。それはリカの手の中でまったく形を変えることはなく、リカが握る力に強弱をつけてもアケビの実のようにずっと柔らかく小さなままだった。
「駄目だな」
僕が力なく笑うと、リカも淋しそうに笑った。僕たちはキスをして、裸のまま一緒に並んで黙りこくったまま、ここに来る前に採っておいたイチジクをいくつもいくつも食べた。いつの間にか空は今にも雨が降り出しそうな色に変わっていた。
(たぶん続く)
僕の横でリカは窮屈そうに寝返りを打った。僕はひじを付いて頭を支えた格好のままリカの体に布団をそっとかけ直し、目の前でなだらかなカーブを描いている腰に収まりよく手を当てた。時計は十二時十五分前を指していた。
リカは目を閉じたまま口をひねったかと思うと体をくるりと反転させ、僕の腕の中に転がり込むように向き直った。リカも僕も裸ではなくそれぞれ下着だけを身に着けていた。僕はそのままリカを抱きしめるわけでもなく、相変わらず腰に手を置いたままだった。抱き寄せるわけでもなく、突き放すわけでもない。リカもそれ以上体をすり寄せたりせず、離れていくこともなかった。
「やっぱり駄目だったね、ユウ」
リカは当たり前のことを再確認するかのように、壁を見ながらポツリと言った。
「うん」
僕も間を埋めるために、リカと反対側の壁を見ながらとりあえず返事をした。
「それじゃあ、私、午後から講義があるから」
そう言うとリカはもう一度反対に転がって起き上がると、ベッドに腰をかけて足元に散乱した服を一つずつ拾い上げながら身に付け始めた。
リカのくっきりと浮き上がった背骨はなだらかに隆起と陥没を繰り返していたが、やがて服に覆われて見えなくなった。肩甲骨あたりにある二つのホクロも、左の肩にある赤く盛り上がった傷跡もやはり見えなくなった。
「何か食べる?」
下から見上げたリカはもうすっかり仕度が出来ていて、何故かほっとしたような表情にも見えた。
「うん……いい、時間ないから」
パンツだけの格好で見送る僕に、玄関でバタバタと靴を履いていたリカはそのままキスもせずに出かけていった。
ドアがバタンと閉まり、リカの姿は見えなくなった。僕のまわりを徐々に白いもやが覆っていってやがて何も見えなくなった。
*
リカと僕は幼なじみで、田舎に住んでいた頃からよく一緒に遊んでいた。夏は毎日のように海で泳ぎ戯れ、秋には森の中を探検して歩き、野生のアケビや木イチゴを採ったり、洞穴を見つけてその中で遊んだり採ってきたものを食べたりした。
僕たちは二人で居るのがとても好きだったが、恐らくそれはお互いの家庭環境が似ていたせいもあったのだろう。
僕の両親は僕が物心つき始めた頃に離婚し、母親と二人になった僕は一年後新しい父親と暮らすようになった。父親は何かにつけてすぐ手が出る性格で、酒に酔っては母親と僕に暴力を振るった。更に悪いことにこの父親は僕を性的興味の対象としても見ていて、実際僕をその通りに扱った。母親の留守を見はからい、僕の肛門やペニスを弄くったり舐め回したりしては反応を楽しんだ。僕にも父親に同じことをするように強要され、嫌がればまた暴力を振るわれた。そしてこの儀式は僕が精通を迎える頃まで続いた。
リカの両親は離婚こそせず暴力も振るわなかったものの、ある日昼寝をしていたリカが目を覚ますと、下着を脱がされ拡げられた股の間に実の父親の頭が動いているのを発見することになった。以来リカが高校を卒業するまで、父親は母親の目を盗んではリカを性のおもちゃとして扱い続けた。リカは初潮を迎えた頃には既に父親によって女にさせられていた。
僕たちはお互いのそんな境遇を打ち明けあい慰めあえる唯一の存在だった。
僕たちが中学に入った頃だろうか、僕たちは森の中の洞穴で裸になって抱き合った。僕たちはそれまでお医者さんごっこすらしたことがなかったが、その時は何故かそうしなければならないような気がしたのだ。僕が家の物置から持ってきた古い毛布を敷くと、その上で二人とも黙ったまま服を脱ぎ始めた。
リカの体は細くて薄くてとても頼りなげだったが、ところどころに薄赤く刻まれたすり傷と、そこだけ不釣合いに逞しく張り出した腰がリカの体に匂い立つような生々しさを与えていた。
僕たちは一糸まとわぬ姿になると毛布の上で横になった。
「ユウくん、細いね」
リカは僕の脇腹に手を当て、肋骨の数を数えるように指でなぞった。
僕はリカの腰のくびれに置いた手の吸い付くような馴染みのよさに感動して、それをリカに告げるとリカは「ふふっ」と笑って腰をよじった。僕はそのまま脇腹から大腿にかけてゆっくりと何度も手を往復させた。そして臀部と陰部をさすると胸の小さな隆起に手を当てて、色づいてほころびかけている蕾を指で確かめた。
リカも僕の脇腹から腰を撫でるようにさすったり乳首を指で引っ掻いたりした後、僕のペニスを暖かな手でそっと包んだ。それはリカの手の中でまったく形を変えることはなく、リカが握る力に強弱をつけてもアケビの実のようにずっと柔らかく小さなままだった。
「駄目だな」
僕が力なく笑うと、リカも淋しそうに笑った。僕たちはキスをして、裸のまま一緒に並んで黙りこくったまま、ここに来る前に採っておいたイチジクをいくつもいくつも食べた。いつの間にか空は今にも雨が降り出しそうな色に変わっていた。
(たぶん続く)
無花果(2) ― 2007年03月06日 11時01分47秒
僕たちは高校を卒業すると大学に進学するために逃げるようにして田舎を飛び出した。僕たちは忌わしく呪われた過去をすべて捨て去って、まったく新しい自分に生まれ変われるような気がしていた。
リカは学生寮に入り、僕はアパートを借りて新しい生活を始めた。二人の距離は電車で五駅分ほどだった。
しかし生活が落ち着くにつれ、結局住む所が変わっても僕たちを取り巻く状況は何一つ変わってはいないのだということを思い知らされた。リカへの想いと満たされぬ止めどない性愛の情、深くえぐるように刻み込まれた精神的な傷と痛みといったようなものが僕のまわりをぐるりと取り囲み、徐々にその間隔を狭めてくるのだ。
それでも学生生活はそれなりに楽しいものだった。人付き合いの苦手な僕にもそれなりに友人は出来たし、以前に比べれば生活していくことの動機付けも得やすくなった。少なくともがらんどうの僕の心にぺたぺたと色紙を貼っていくことくらいは出来たような気がした。
僕はチェーンの大型スーパーの食料品売り場でレジ打ちや品出しのアルバイトをしていた。売り場のパート・アルバイトはパート、男子学生アルバイト、女子学生アルバイトがほぼ同じ割合で全部で二十人ほどだった。
僕は特にレジ打ちが得意だった。客の持ってきた買い物カゴから空のカゴへ商品を一つ一つ移しながらその値段をレジのキーで打ち込むのだが、僕はすぐにキーを見ないで正確に入力できるようになったので時間もかからなかったし、商品だけ見ていれば済むため移動した商品も丁寧にきちんと並べることができた(まああまり愛想はよくなかったかもしれないが、僕は速くて正確で丁寧なのだ。それで勘弁して欲しい)。さらに野菜など日によって値段が変わるものも含めほとんどの商品の値段を覚えていたので、値札が付いていなくても困ることがなく、皆からもとても重宝がられた。
リカとは時々会ってお互いの近況を報告しあったりした。しかしリカと一緒にいればいるほど、僕はどうしようもない倦怠感や乖離感に苛まれることが多くなっていた。それでも僕たちはなるべく一緒にいる時間を作ろうと努めた。そうすることでまだ見ぬ新たな何かが掴み取れると、あるいは失ってしまった何かが取り戻せると思っていたのかも知れない。
*
バイト先のパートのおばさん達に混じって一人だけ少し若いヨウコさんという人がいた。歳の頃は二十七、八か、太ってはいないが少し大柄で髪が長くどちらかといえば清楚で幼い顔をしていた。性格はさっぱりしていて明るく、よく気が付いて面倒見がいいので、パート、アルバイト問わず皆に好かれていた。
僕が一度値段を間違えた値札を大量に貼ってしまった時など、ヨウコさんは休憩時間にも関わらず貼り直すのを手伝ってくれて、皆に気付かれないように黙ってくれていた。もっとも僕は近くでしゃがんでいるヨウコさんの束ねた髪と制服の白い襟からのぞく襟足と、きれいで立派な素足に留まる短いソックスに目を奪われ、意外なほど肉感的な匂いにも鼻をくすぐられて、ほとんど仕事にはならなかったのだが。
ある日休憩室でヨウコさんを囲んで皆で喋っている時に、話の流れでヨウコさんの家にバイト仲間数人で遊びに行くことになった。ウチ狭いよぉ、と顔をしかめながらヨウコさんは笑っていた。
バイト先から程近い古びたアパートの二階にヨウコさんの家はあった。確かにヨウコさんの家は狭く、簡単な台所とトイレの他には六畳一間があるだけだった。
ヨウコさんはアキラさんという男の人と一緒に住んでいた。ヨウコさんはアキラさんのことを“ウチの旦那”と呼んでいたが、結婚はしていないようだった。アキラさんはがっしりとした体と長めの髪に口ひげを生やし、よく動く大きな目が知的な印象だった。アキラさんも気さくで人懐っこい人で、あっという間に僕たちはすっかり打ち解けていた。
テーブル代わりのコタツを皆で囲んで、僕たちはヨウコさんの(あの台所でどうやって作ったのかさっぱりわからないくらい見事な)手料理を食べて飲んた。アキラさんは昔絵を描いていたらしいが、今は絵筆を握ることもなくもっぱら肉体労働に従事しているらしい。実際のところアキラさんはとても博識で芸術から政治まであらゆることに造詣が深く、僕たちはすっかりアキラさんの話の楽しさに引き込まれた。確かに部屋には絵の道具は見当たらず、アキラさんは僕たちに色々と話して聞かせることで何かのうっぷんを晴らしているようにも見えた。僕はこの部屋に入った時に切なくなるようなセックスの残り香と共に、アキラさんのくすぶるような才気が狭い空間に渦巻いているのを感じていた。
ヨウコさんはアキラさんと並ぶと一層しおらしく華やいで見えた。そんな二人からは淫靡な香りすら漂ってきて、僕はそれだけで妙な気分になったほどだ。
僕たちはすっかり酔っ払ってしまい、帰るタイミングを失ってしまった。もう電車もないんだし明日は休みだから(僕たちはバイトがあるが)泊まっていきなさい、とヨウコさんたちに勧められ、僕たちはそのまま六畳間で雑魚寝することになった。
明かりが消えて、やがて皆の寝息が聞こえてきた頃、僕はまだまんじりともせずに暗闇を見上げていた。僕とリカのことを考えながら、ヨウコさんとアキラさんのことも考えていた。僕たちと彼らを隔てているものは一体何なのだろうということを。
やがて僕は夢の中でリカと会い、裸で抱き合いながらリカが僕の体を触るのを好きにさせていると、リカの手が僕のペニスに伸びてきた。すると驚いたことに僕のペニスははちきれんばかりに膨張し、リカの手の中で熱く律動していた。それはまるで焼け火箸でも股の間に挟んだかと思うほど火が噴き出さんばかりに熱く、痛いほどだった。そしてリカの手がゆっくりと優しく動き始めると、僕の体がペニスの先端から全て溶け出してしまいそうなくらいに痺れた。僕の頭から次第に白い霧が晴れるように向こう側の景色が見え始め、わけもなく怖くなった僕はそっと目を開けてみた。
するとそこには暗闇の中で僕の毛布から顔を出しているヨウコさんがいた。ヨウコさんの息は甘く僕をくすぐり、その手は僕の股間の辺りで蠢いているのが毛布の動きでわかった。ヨウコさんの手は動きを次第に速めていき、やがて僕はその手に導かれるままに到達した。ヨウコさんは迸り出る僕をそのまま手で受け止めると、何か小さな布をあてがい拭き取った。そして今度はそっと手を当てて僕が鎮まるのを待った。
僕がヨウコさんの腰をまさぐると、めくれあがったスカートの下には下着の感触はなく、逞しく張り切った腰が直接僕の手に触れた。僕がヨウコさんの深みを求めて彷徨っていると、ふいに僕はヨウコさんに暖かく包まれて吸い込まれるように沈んでいった。
すると白い霧が再びあたりを次第に覆い始め、遙か彼方に僕を連れ去っていった――。
朝、ヨウコさんは僕たちに朝ご飯を作ってくれた。アキラさんは新聞を読みながらテレビにも目をやり、ほとんど食卓を見ないで食べていた。
「ユウくん、彼女はいるの?」
と突然ヨウコさんが僕に訊ねた。
「えぇ、まぁ、一応いますけど」
僕はヨウコさんの目を見ずに答えた。
「なぁに、一応って? じゃあ、今度彼女と一緒にまた遊びにいらっしゃい。ねぇ――」
アキラさんは相変わらず新聞とテレビを交互に見ながら、「あぁ」と上の空で答えた。
(まだ続く)
リカは学生寮に入り、僕はアパートを借りて新しい生活を始めた。二人の距離は電車で五駅分ほどだった。
しかし生活が落ち着くにつれ、結局住む所が変わっても僕たちを取り巻く状況は何一つ変わってはいないのだということを思い知らされた。リカへの想いと満たされぬ止めどない性愛の情、深くえぐるように刻み込まれた精神的な傷と痛みといったようなものが僕のまわりをぐるりと取り囲み、徐々にその間隔を狭めてくるのだ。
それでも学生生活はそれなりに楽しいものだった。人付き合いの苦手な僕にもそれなりに友人は出来たし、以前に比べれば生活していくことの動機付けも得やすくなった。少なくともがらんどうの僕の心にぺたぺたと色紙を貼っていくことくらいは出来たような気がした。
僕はチェーンの大型スーパーの食料品売り場でレジ打ちや品出しのアルバイトをしていた。売り場のパート・アルバイトはパート、男子学生アルバイト、女子学生アルバイトがほぼ同じ割合で全部で二十人ほどだった。
僕は特にレジ打ちが得意だった。客の持ってきた買い物カゴから空のカゴへ商品を一つ一つ移しながらその値段をレジのキーで打ち込むのだが、僕はすぐにキーを見ないで正確に入力できるようになったので時間もかからなかったし、商品だけ見ていれば済むため移動した商品も丁寧にきちんと並べることができた(まああまり愛想はよくなかったかもしれないが、僕は速くて正確で丁寧なのだ。それで勘弁して欲しい)。さらに野菜など日によって値段が変わるものも含めほとんどの商品の値段を覚えていたので、値札が付いていなくても困ることがなく、皆からもとても重宝がられた。
リカとは時々会ってお互いの近況を報告しあったりした。しかしリカと一緒にいればいるほど、僕はどうしようもない倦怠感や乖離感に苛まれることが多くなっていた。それでも僕たちはなるべく一緒にいる時間を作ろうと努めた。そうすることでまだ見ぬ新たな何かが掴み取れると、あるいは失ってしまった何かが取り戻せると思っていたのかも知れない。
*
バイト先のパートのおばさん達に混じって一人だけ少し若いヨウコさんという人がいた。歳の頃は二十七、八か、太ってはいないが少し大柄で髪が長くどちらかといえば清楚で幼い顔をしていた。性格はさっぱりしていて明るく、よく気が付いて面倒見がいいので、パート、アルバイト問わず皆に好かれていた。
僕が一度値段を間違えた値札を大量に貼ってしまった時など、ヨウコさんは休憩時間にも関わらず貼り直すのを手伝ってくれて、皆に気付かれないように黙ってくれていた。もっとも僕は近くでしゃがんでいるヨウコさんの束ねた髪と制服の白い襟からのぞく襟足と、きれいで立派な素足に留まる短いソックスに目を奪われ、意外なほど肉感的な匂いにも鼻をくすぐられて、ほとんど仕事にはならなかったのだが。
ある日休憩室でヨウコさんを囲んで皆で喋っている時に、話の流れでヨウコさんの家にバイト仲間数人で遊びに行くことになった。ウチ狭いよぉ、と顔をしかめながらヨウコさんは笑っていた。
バイト先から程近い古びたアパートの二階にヨウコさんの家はあった。確かにヨウコさんの家は狭く、簡単な台所とトイレの他には六畳一間があるだけだった。
ヨウコさんはアキラさんという男の人と一緒に住んでいた。ヨウコさんはアキラさんのことを“ウチの旦那”と呼んでいたが、結婚はしていないようだった。アキラさんはがっしりとした体と長めの髪に口ひげを生やし、よく動く大きな目が知的な印象だった。アキラさんも気さくで人懐っこい人で、あっという間に僕たちはすっかり打ち解けていた。
テーブル代わりのコタツを皆で囲んで、僕たちはヨウコさんの(あの台所でどうやって作ったのかさっぱりわからないくらい見事な)手料理を食べて飲んた。アキラさんは昔絵を描いていたらしいが、今は絵筆を握ることもなくもっぱら肉体労働に従事しているらしい。実際のところアキラさんはとても博識で芸術から政治まであらゆることに造詣が深く、僕たちはすっかりアキラさんの話の楽しさに引き込まれた。確かに部屋には絵の道具は見当たらず、アキラさんは僕たちに色々と話して聞かせることで何かのうっぷんを晴らしているようにも見えた。僕はこの部屋に入った時に切なくなるようなセックスの残り香と共に、アキラさんのくすぶるような才気が狭い空間に渦巻いているのを感じていた。
ヨウコさんはアキラさんと並ぶと一層しおらしく華やいで見えた。そんな二人からは淫靡な香りすら漂ってきて、僕はそれだけで妙な気分になったほどだ。
僕たちはすっかり酔っ払ってしまい、帰るタイミングを失ってしまった。もう電車もないんだし明日は休みだから(僕たちはバイトがあるが)泊まっていきなさい、とヨウコさんたちに勧められ、僕たちはそのまま六畳間で雑魚寝することになった。
明かりが消えて、やがて皆の寝息が聞こえてきた頃、僕はまだまんじりともせずに暗闇を見上げていた。僕とリカのことを考えながら、ヨウコさんとアキラさんのことも考えていた。僕たちと彼らを隔てているものは一体何なのだろうということを。
やがて僕は夢の中でリカと会い、裸で抱き合いながらリカが僕の体を触るのを好きにさせていると、リカの手が僕のペニスに伸びてきた。すると驚いたことに僕のペニスははちきれんばかりに膨張し、リカの手の中で熱く律動していた。それはまるで焼け火箸でも股の間に挟んだかと思うほど火が噴き出さんばかりに熱く、痛いほどだった。そしてリカの手がゆっくりと優しく動き始めると、僕の体がペニスの先端から全て溶け出してしまいそうなくらいに痺れた。僕の頭から次第に白い霧が晴れるように向こう側の景色が見え始め、わけもなく怖くなった僕はそっと目を開けてみた。
するとそこには暗闇の中で僕の毛布から顔を出しているヨウコさんがいた。ヨウコさんの息は甘く僕をくすぐり、その手は僕の股間の辺りで蠢いているのが毛布の動きでわかった。ヨウコさんの手は動きを次第に速めていき、やがて僕はその手に導かれるままに到達した。ヨウコさんは迸り出る僕をそのまま手で受け止めると、何か小さな布をあてがい拭き取った。そして今度はそっと手を当てて僕が鎮まるのを待った。
僕がヨウコさんの腰をまさぐると、めくれあがったスカートの下には下着の感触はなく、逞しく張り切った腰が直接僕の手に触れた。僕がヨウコさんの深みを求めて彷徨っていると、ふいに僕はヨウコさんに暖かく包まれて吸い込まれるように沈んでいった。
すると白い霧が再びあたりを次第に覆い始め、遙か彼方に僕を連れ去っていった――。
朝、ヨウコさんは僕たちに朝ご飯を作ってくれた。アキラさんは新聞を読みながらテレビにも目をやり、ほとんど食卓を見ないで食べていた。
「ユウくん、彼女はいるの?」
と突然ヨウコさんが僕に訊ねた。
「えぇ、まぁ、一応いますけど」
僕はヨウコさんの目を見ずに答えた。
「なぁに、一応って? じゃあ、今度彼女と一緒にまた遊びにいらっしゃい。ねぇ――」
アキラさんは相変わらず新聞とテレビを交互に見ながら、「あぁ」と上の空で答えた。
(まだ続く)
無花果(3) ― 2007年03月08日 15時58分28秒
リカもリカなりに学生生活を満喫しているようだった。友達も大勢出来たようだし、服装や髪型も垢抜けてきた。もともとスレンダーでスタイルも良かったので、街を歩けば男の目もずいぶん引くようになった。
リカは最初喫茶店でアルバイトをしていたが、リカ目当ての客もかなり増えてきた頃、リカのお尻を触った客の男の頭を、持っていた大きなパフェグラスで殴りつけて大怪我をさせてしまい、今は図書館で働きながら司書になるための勉強をしていた。リカは図書館で働くのがかなり気に入ったようだった。
「そりゃ図書館にはお尻を触ってくるような奴はいないだろうからね。だいいちスタイルが良くても勤まる仕事ってのはそれだけで貴重だ」
と僕がからかうと、リカは少しむくれながら言った。
「そうじゃなくてぇ。図書館って本屋さんと違って取ってつけたような教養主義を押し付けたりしないでしょ? 整理された膨大な教養そのものが鎮座ましましてるっていう感じがたまらないし、そこから滲み出した湧き水のような恵みを皆があちこちから掬いに来るのよ。これって凄くない?」
「それこそ教養主義の押し売りっぽいぞ。おまけに権威主義的で僕はあんまり好きにはなれないけどな」
「そぉ? ま、いいけどね」
僕は何よりリカがそんな友達とか服とかアルバイトとかいった‘普通’のことに夢中になってくれているのがとても嬉しかったし安心もできた。もちろんリカも普通であることの幸せは十分感じていたと思う。
*
バイト先の休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、入口のカーテンをくぐってヨウコさんが入ってきた。休憩室には他に誰もおらず僕たちは二人きりだった。
エル字型に並んだソファの交点部分に僕たちは互いに九十度に向き合って座り、黙っていた。ヨウコさんは髪をいじりながら念入りに毛先のチェックをしていた。僕は制服に身を包んでいるせいで今はあまり目立たないヨウコさんの胸元をじっと見ていた。そういえばこの前胸は触らなかったな、などと考えているとまた甘い蜜が頭の中で溶け出したようにぼうっとした。
「触る?」
そう言うとヨウコさんは僕の方に体を寄せて、少し胸を突き出すような格好をした。
「服は脱げないけどね」
僕はヨウコさんの胸に手を当てて軽く揉みはじめた。ヨウコさんは目をつぶり、ゆっくりと体を揺らしていたが、手をスッと僕の股間に伸ばすと、既に張り詰めている僕を確かめて、うっすらと微笑んだ。
「今度の土曜日ね――」
ヨウコさんは目を閉じたまま、僕の方を向いて突然切り出した。
「ダンナの誕生日なんだ。もし良かったら彼女連れてウチに遊びに来ない?」
「いいですけど、せっかくの誕生日にお邪魔じゃないんですか?」
僕もヨウコさんの胸に手を置いたまま答えた。
「あんた達みたいに若い子はそんなことないだろうけど、誕生日に二人だけでいるってのもなかなか辛いもんなのよ。わたし達くらいになると」
ヨウコさんは僕の股間を握る手に少し力を込めた。
「そんなもんですか」
僕はヨウコさんの胸の先端を指の先だけでくすぐるように撫でた。
「だからまあ誕生日とかそんなに気にしないで、気楽に来てくれればいいのよ」
そう言うとヨウコさんは急いで手を引っ込めた。カーテンの向こうからパートのおばさん達の声が近づいてきた。僕も慌てて手を引っ込めると
「じゃあ」
と言ってヨウコさんは立ち上がり、スッと休憩室を出て行った。
僕はヨウコさんと入れ違いに休憩室に入ってきたおばさん達に股間の様子を悟られないようにするため、しばらくそこを動けなかった。
リカはあまり気乗りしない様子だったが、結局僕が半ば押し切るような形で週末少し時間は早かったが僕達はヨウコさんの家を訪ねた。
ヨウコさんは全身で相好を崩しながら、僕達を迎えてくれた。
リカとアキラさんが顔を会わせた時、二人とも驚いた様子で顔を見合わせていた。アキラさんはリカの働く図書館によく通っていて、美術書や哲学書を読み漁っているのだそうだ。貸し出しカウンターにいるリカとは当然顔見知りだった。これには僕とヨウコさんの方が驚いた。
「さてと、まだ何も用意してないのよ。買い物に行かなくちゃ。重いからユウくん付いてきてくれる?」
僕はリカの様子をチラッと見て大丈夫そうだったので、ヨウコさんと一緒に近くのスーパーまで出かけた。スーパーに着くまでの間、ヨウコさんは一言も喋らなかった。僕も隣で黙ったまま付いていった。
僕達は山盛り二カゴの買い物をレジに持ち込んで会計をした。このスーパーでは既にバーコード・スキャナで値段を読み取るようになっていたが、どう見ても僕が手でレジを打った方が速いような気がした。ヨウコさんにもレジの女の子にも何も言わなかったけど。レジを通って更に山盛りになった二カゴの買い物を、僕達は慎重に三つの袋に詰め、二つを僕が一つをヨウコさんが持った。
店を出るとすっかり陽は落ちていて、街の果てに少し紫色とオレンジのグラデーションが残る程度になっていた。僕達は商店街を出ると、雑居ビルの立ち並ぶ通りを歩いていたが、二人ともふと立ち止まって、人目につきにくいビルとビルの間の暗がりを見ていた。ふとヨウコさんは僕の手を引っ張ると、その片方のビルに入っていった。二階に上がるとカラオケの音がうるさく響いていて、僕達は三階の誰もいないオフィスフロアのトイレに駆け込んだ。三つの買い物袋をドサッドサッとトイレの床に置くのももどかしく、僕達はお互いの体をまさぐった。重なり合うカラオケの歌声を聞きながら、僕達は性急に貪りあった――。
「ごめーん、遅くなっちゃって。何にしようかなかなか決まらなかったんだもん。ねえ、ユウくん」
僕達はすっかり待ちくたびれた様子のアキラさんとリカの目の前に買い物袋を戦利品のように得意げに置くと、ヨウコさんとリカが早速夕食の準備に取り掛かった。卵が二個割れていて、豆腐が崩れていたのには少しヒヤッとさせられた。
「リカちゃんとキミは幼なじみなんだってね」
アキラさんが興味深そうに僕に訊ねた。
「そして今は恋人同士だ。ありそうであまりない関係かもしれないな。だからかも知れないけど君たちには少し変わった雰囲気があるね。何て言うのかな、二人の関係性に関してだけど、まるで革命の同志のような透明な意志と硬直した未来のようなものを感じるな。まあ独特だよ」
僕は混乱しながらも納得していた。確かに僕達は互いのために死ねるかもしれないが、お互いの心と体を心底とろけさせ安らがせることは出来ないのかもしれない。
その夜は楽しかった。後ろ髪は引かれたものの僕達は電車のあるうちに引き上げることにした。
*
その後も僕とヨウコさんは関係を持ち続けた。関係? 一体どんな関係なんだ。僕達は決して最後の一線を越えることはなかったし、キスもしたことはなかった。僕達はある意味互いに依存しながらも、互いの感情を持ち込むのは避けた。もちろん話し合って明確に規定したわけでもない。ただそういった関係だったのだ。
リカもいぶかしがる様子を見せないわけではなかったが、彼女は決して僕を問い詰めたり、取り乱したりすることはなかった。僕達はそういう関係だった。
もちろん僕にとってリカは最愛で至福たるべき存在だ。それは何を犠牲にしても守られる必要がある。そうでなければ僕の、そしてリカの存在にどれほどの意味があるのだろうか。
ただ僕が変わっていくのと同様にリカにもこのところ変化が現れた。それはやはりヨウコさんの家に行ってから、徐々にだが僕に会うのを避けるようになったような気がした。たまに連絡が取れないこともあったし、会ってもいつも浮かぬ顔をしていた。
ある日、珍しく突然リカが僕のアパートに現れた。いつにも増して浮かぬ顔をしていたリカは、重そうな口を開いて話し始めた。
リカは妊娠しているという。もう三ヶ月だそうだ。もちろん僕の子供ではない。父親はアキラさんだった。ヨウコさんの家で会って以来、アキラさんが図書館に来るたびに会っていたそうだ。何故そんなことになったのか理由は聞かなかったが、わかるような気はした。
リカは高校に入った頃、父親の子供を堕ろしていた。だから今度はどうしても産みたいのだと言った。アキラさんには聞くまでもなく子供の父親になる気などないだろう。
「わかったよ」
俺は言った。
「子供は産むんだ。僕と一緒に育てよう。もちろんキミがそれでよければだけど」
リカは床にへたり込んで、大声で泣き出した。
「ユウと一緒にいたいよ。ずっとユウと一緒にいたいよ」
もう何を言っているかわからなかったが、リカは吠えるようにそう言って、細い腕を振り上げ僕をポカポカと殴った。
数日経ってリカはアキラさんに会って、もう会わないことを告げた。子供のことは言わずに。
僕もヨウコさんに会わなくて済むようにバイトを辞めた。すぐに新しいバイトを探さなくちゃいけないけど。
*
白い霧がたちこめるあの森の中で、僕はリカを抱いて洞穴の中にいた。僕達の間にはイチジクの葉にくるまれた赤ん坊がスヤスヤと寝息を立てていた。僕はリカの体に触れ、リカは僕の柔らかなペニスを握り締めていた。それは次第に膨張していきやがて隆々とはちきれんばかりに反り返った。リカが思わず声を上げると、赤ん坊が目を覚まし大声で泣き出した。するとたちこめていた霧がスゥッと晴れていき、矢のような鋭い日差しが洞穴の中を乱反射した。
僕とリカは赤ん坊越しに心の底からキスをした――。
(了)
リカは最初喫茶店でアルバイトをしていたが、リカ目当ての客もかなり増えてきた頃、リカのお尻を触った客の男の頭を、持っていた大きなパフェグラスで殴りつけて大怪我をさせてしまい、今は図書館で働きながら司書になるための勉強をしていた。リカは図書館で働くのがかなり気に入ったようだった。
「そりゃ図書館にはお尻を触ってくるような奴はいないだろうからね。だいいちスタイルが良くても勤まる仕事ってのはそれだけで貴重だ」
と僕がからかうと、リカは少しむくれながら言った。
「そうじゃなくてぇ。図書館って本屋さんと違って取ってつけたような教養主義を押し付けたりしないでしょ? 整理された膨大な教養そのものが鎮座ましましてるっていう感じがたまらないし、そこから滲み出した湧き水のような恵みを皆があちこちから掬いに来るのよ。これって凄くない?」
「それこそ教養主義の押し売りっぽいぞ。おまけに権威主義的で僕はあんまり好きにはなれないけどな」
「そぉ? ま、いいけどね」
僕は何よりリカがそんな友達とか服とかアルバイトとかいった‘普通’のことに夢中になってくれているのがとても嬉しかったし安心もできた。もちろんリカも普通であることの幸せは十分感じていたと思う。
*
バイト先の休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、入口のカーテンをくぐってヨウコさんが入ってきた。休憩室には他に誰もおらず僕たちは二人きりだった。
エル字型に並んだソファの交点部分に僕たちは互いに九十度に向き合って座り、黙っていた。ヨウコさんは髪をいじりながら念入りに毛先のチェックをしていた。僕は制服に身を包んでいるせいで今はあまり目立たないヨウコさんの胸元をじっと見ていた。そういえばこの前胸は触らなかったな、などと考えているとまた甘い蜜が頭の中で溶け出したようにぼうっとした。
「触る?」
そう言うとヨウコさんは僕の方に体を寄せて、少し胸を突き出すような格好をした。
「服は脱げないけどね」
僕はヨウコさんの胸に手を当てて軽く揉みはじめた。ヨウコさんは目をつぶり、ゆっくりと体を揺らしていたが、手をスッと僕の股間に伸ばすと、既に張り詰めている僕を確かめて、うっすらと微笑んだ。
「今度の土曜日ね――」
ヨウコさんは目を閉じたまま、僕の方を向いて突然切り出した。
「ダンナの誕生日なんだ。もし良かったら彼女連れてウチに遊びに来ない?」
「いいですけど、せっかくの誕生日にお邪魔じゃないんですか?」
僕もヨウコさんの胸に手を置いたまま答えた。
「あんた達みたいに若い子はそんなことないだろうけど、誕生日に二人だけでいるってのもなかなか辛いもんなのよ。わたし達くらいになると」
ヨウコさんは僕の股間を握る手に少し力を込めた。
「そんなもんですか」
僕はヨウコさんの胸の先端を指の先だけでくすぐるように撫でた。
「だからまあ誕生日とかそんなに気にしないで、気楽に来てくれればいいのよ」
そう言うとヨウコさんは急いで手を引っ込めた。カーテンの向こうからパートのおばさん達の声が近づいてきた。僕も慌てて手を引っ込めると
「じゃあ」
と言ってヨウコさんは立ち上がり、スッと休憩室を出て行った。
僕はヨウコさんと入れ違いに休憩室に入ってきたおばさん達に股間の様子を悟られないようにするため、しばらくそこを動けなかった。
リカはあまり気乗りしない様子だったが、結局僕が半ば押し切るような形で週末少し時間は早かったが僕達はヨウコさんの家を訪ねた。
ヨウコさんは全身で相好を崩しながら、僕達を迎えてくれた。
リカとアキラさんが顔を会わせた時、二人とも驚いた様子で顔を見合わせていた。アキラさんはリカの働く図書館によく通っていて、美術書や哲学書を読み漁っているのだそうだ。貸し出しカウンターにいるリカとは当然顔見知りだった。これには僕とヨウコさんの方が驚いた。
「さてと、まだ何も用意してないのよ。買い物に行かなくちゃ。重いからユウくん付いてきてくれる?」
僕はリカの様子をチラッと見て大丈夫そうだったので、ヨウコさんと一緒に近くのスーパーまで出かけた。スーパーに着くまでの間、ヨウコさんは一言も喋らなかった。僕も隣で黙ったまま付いていった。
僕達は山盛り二カゴの買い物をレジに持ち込んで会計をした。このスーパーでは既にバーコード・スキャナで値段を読み取るようになっていたが、どう見ても僕が手でレジを打った方が速いような気がした。ヨウコさんにもレジの女の子にも何も言わなかったけど。レジを通って更に山盛りになった二カゴの買い物を、僕達は慎重に三つの袋に詰め、二つを僕が一つをヨウコさんが持った。
店を出るとすっかり陽は落ちていて、街の果てに少し紫色とオレンジのグラデーションが残る程度になっていた。僕達は商店街を出ると、雑居ビルの立ち並ぶ通りを歩いていたが、二人ともふと立ち止まって、人目につきにくいビルとビルの間の暗がりを見ていた。ふとヨウコさんは僕の手を引っ張ると、その片方のビルに入っていった。二階に上がるとカラオケの音がうるさく響いていて、僕達は三階の誰もいないオフィスフロアのトイレに駆け込んだ。三つの買い物袋をドサッドサッとトイレの床に置くのももどかしく、僕達はお互いの体をまさぐった。重なり合うカラオケの歌声を聞きながら、僕達は性急に貪りあった――。
「ごめーん、遅くなっちゃって。何にしようかなかなか決まらなかったんだもん。ねえ、ユウくん」
僕達はすっかり待ちくたびれた様子のアキラさんとリカの目の前に買い物袋を戦利品のように得意げに置くと、ヨウコさんとリカが早速夕食の準備に取り掛かった。卵が二個割れていて、豆腐が崩れていたのには少しヒヤッとさせられた。
「リカちゃんとキミは幼なじみなんだってね」
アキラさんが興味深そうに僕に訊ねた。
「そして今は恋人同士だ。ありそうであまりない関係かもしれないな。だからかも知れないけど君たちには少し変わった雰囲気があるね。何て言うのかな、二人の関係性に関してだけど、まるで革命の同志のような透明な意志と硬直した未来のようなものを感じるな。まあ独特だよ」
僕は混乱しながらも納得していた。確かに僕達は互いのために死ねるかもしれないが、お互いの心と体を心底とろけさせ安らがせることは出来ないのかもしれない。
その夜は楽しかった。後ろ髪は引かれたものの僕達は電車のあるうちに引き上げることにした。
*
その後も僕とヨウコさんは関係を持ち続けた。関係? 一体どんな関係なんだ。僕達は決して最後の一線を越えることはなかったし、キスもしたことはなかった。僕達はある意味互いに依存しながらも、互いの感情を持ち込むのは避けた。もちろん話し合って明確に規定したわけでもない。ただそういった関係だったのだ。
リカもいぶかしがる様子を見せないわけではなかったが、彼女は決して僕を問い詰めたり、取り乱したりすることはなかった。僕達はそういう関係だった。
もちろん僕にとってリカは最愛で至福たるべき存在だ。それは何を犠牲にしても守られる必要がある。そうでなければ僕の、そしてリカの存在にどれほどの意味があるのだろうか。
ただ僕が変わっていくのと同様にリカにもこのところ変化が現れた。それはやはりヨウコさんの家に行ってから、徐々にだが僕に会うのを避けるようになったような気がした。たまに連絡が取れないこともあったし、会ってもいつも浮かぬ顔をしていた。
ある日、珍しく突然リカが僕のアパートに現れた。いつにも増して浮かぬ顔をしていたリカは、重そうな口を開いて話し始めた。
リカは妊娠しているという。もう三ヶ月だそうだ。もちろん僕の子供ではない。父親はアキラさんだった。ヨウコさんの家で会って以来、アキラさんが図書館に来るたびに会っていたそうだ。何故そんなことになったのか理由は聞かなかったが、わかるような気はした。
リカは高校に入った頃、父親の子供を堕ろしていた。だから今度はどうしても産みたいのだと言った。アキラさんには聞くまでもなく子供の父親になる気などないだろう。
「わかったよ」
俺は言った。
「子供は産むんだ。僕と一緒に育てよう。もちろんキミがそれでよければだけど」
リカは床にへたり込んで、大声で泣き出した。
「ユウと一緒にいたいよ。ずっとユウと一緒にいたいよ」
もう何を言っているかわからなかったが、リカは吠えるようにそう言って、細い腕を振り上げ僕をポカポカと殴った。
数日経ってリカはアキラさんに会って、もう会わないことを告げた。子供のことは言わずに。
僕もヨウコさんに会わなくて済むようにバイトを辞めた。すぐに新しいバイトを探さなくちゃいけないけど。
*
白い霧がたちこめるあの森の中で、僕はリカを抱いて洞穴の中にいた。僕達の間にはイチジクの葉にくるまれた赤ん坊がスヤスヤと寝息を立てていた。僕はリカの体に触れ、リカは僕の柔らかなペニスを握り締めていた。それは次第に膨張していきやがて隆々とはちきれんばかりに反り返った。リカが思わず声を上げると、赤ん坊が目を覚まし大声で泣き出した。するとたちこめていた霧がスゥッと晴れていき、矢のような鋭い日差しが洞穴の中を乱反射した。
僕とリカは赤ん坊越しに心の底からキスをした――。
(了)
西尾勘治 ― 2007年03月20日 13時44分50秒
勘治はふと目に入ったシロツメクサの淡く粒立ったその花に、思わず草むしりの手を止めて見入っていた。彼の頭には白いものが目立ち、その堅くかさついた額には深い皺が何本も刻まれていた。
勘治は生まれてこのかた生きている実感というものを感じたことがない。ぬるま湯のような中流家庭に生まれ、意味もわからないまま学校に通い、就職をしたが、ついに虚空のような自分の人生に耐えかねて仕事を辞め、今はバッティングセンターでアルバイトをしていた。意味があるとはいえないかもしれないが、少なくとも気楽ではあった。
「西尾さーん」
振り返るとマネージャーが飛び跳ねるようにして駆け寄ってきた。
今日は山崎というプロ野球の二軍の選手が来ているのだが、ピッチングマシンの調子が悪く練習にならないから何とかしろ、と言われているらしい。
「他のマシンも空いてなくてさぁ、悪いんだけど西尾さん、ゆっくりでいいから投げてあげてくれないかな? 山崎さん、お得意さんだし」
「と、とんでもない。ピッチャーの経験なんか全くないんですから。無理ですよ」
しかし結局勘治はマネージャーに押し切られ、渋々準備を始めた。
小学生の頃一度だけ立ったバッターボックスで無様に三振した記憶が蘇る。やっぱり無理だよ、と心で呟きながらボールを手に取った。ところが驚いたことにボールは手に吸い付くように不思議にしっくりと収まり、手は慣れた手付きでくるくると軽くボールを回しながら玩び始めたのだ。頭は冴え、体には力が漲り、味わったことのない充実感が勘治を包んだ。
「――早くしてくれよ――」
バットを肩に担ぐようにしてバッターボックスに立っている山崎に促され、勘治はゆっくりと振り被った。堂々とした柔らかいフォームから、しなるように振り出された腕から放たれたボールは、唸りを上げながらストライクゾーンのど真ん中を通過し、とてつもない音を立ててボール止めにぶつかった。山崎はポカンとしてボールが通り過ぎた後のベースを見ていた。他の客や従業員もみなその手を止めて呆然と勘治を見つめた。思わず拍手をする者もいた。
勘治はいつも行く近くの公園のベンチに座って、こみ上げてくる笑いを堪えるように微かに体を震わせた。そして首を小さく左右に振りながら立ち上がると、足元の小石を拾って目の前の池にサイドスローで投げ込んだ。石は水の上を何度も何度も跳ねながら飛んで行き、やがて見えなくなった。
勘治は生まれてこのかた生きている実感というものを感じたことがない。ぬるま湯のような中流家庭に生まれ、意味もわからないまま学校に通い、就職をしたが、ついに虚空のような自分の人生に耐えかねて仕事を辞め、今はバッティングセンターでアルバイトをしていた。意味があるとはいえないかもしれないが、少なくとも気楽ではあった。
「西尾さーん」
振り返るとマネージャーが飛び跳ねるようにして駆け寄ってきた。
今日は山崎というプロ野球の二軍の選手が来ているのだが、ピッチングマシンの調子が悪く練習にならないから何とかしろ、と言われているらしい。
「他のマシンも空いてなくてさぁ、悪いんだけど西尾さん、ゆっくりでいいから投げてあげてくれないかな? 山崎さん、お得意さんだし」
「と、とんでもない。ピッチャーの経験なんか全くないんですから。無理ですよ」
しかし結局勘治はマネージャーに押し切られ、渋々準備を始めた。
小学生の頃一度だけ立ったバッターボックスで無様に三振した記憶が蘇る。やっぱり無理だよ、と心で呟きながらボールを手に取った。ところが驚いたことにボールは手に吸い付くように不思議にしっくりと収まり、手は慣れた手付きでくるくると軽くボールを回しながら玩び始めたのだ。頭は冴え、体には力が漲り、味わったことのない充実感が勘治を包んだ。
「――早くしてくれよ――」
バットを肩に担ぐようにしてバッターボックスに立っている山崎に促され、勘治はゆっくりと振り被った。堂々とした柔らかいフォームから、しなるように振り出された腕から放たれたボールは、唸りを上げながらストライクゾーンのど真ん中を通過し、とてつもない音を立ててボール止めにぶつかった。山崎はポカンとしてボールが通り過ぎた後のベースを見ていた。他の客や従業員もみなその手を止めて呆然と勘治を見つめた。思わず拍手をする者もいた。
勘治はいつも行く近くの公園のベンチに座って、こみ上げてくる笑いを堪えるように微かに体を震わせた。そして首を小さく左右に振りながら立ち上がると、足元の小石を拾って目の前の池にサイドスローで投げ込んだ。石は水の上を何度も何度も跳ねながら飛んで行き、やがて見えなくなった。
エレベーター ― 2007年03月20日 22時11分27秒
エレベーターは僕を乗せて上昇していた。あるいは僕はエレベーターに乗って上昇を続けていた。それくらいしか形容に選択肢のない極めて限定された状況の中に僕(あるいはエレベーター)は押し込められていた。
もっとも上昇していたというのは僕の勝手な思い込みに過ぎない。何しろあまりに長い間このエレベーターの中にいたので、上昇していたのかそれとも下降していたのかよくわからなくなっていたのだ。
光源の見当たらないエレベーター内には必要にして十分な光が溢れ、あまりの静けさにその存在を想像することすら出来ないエアーコンディショナーによってエレベーター内は完璧な空気で満たされていた。
壁はブラックパールのような鈍い艶を放ち、汚れたり傷ついたりすることを生まれながらに拒絶しているかのようにそびえていた。
恐らくドアと思われる面の左右には数え切れない程の行き先指示ボタンが整然と並んでいて、その中の“47”だけが所在なさそうに点灯していた。それ以外には階数表示も緊急連絡用のボタンも何も付いておらず、僕は困惑するより先に、こんなエレベーターがメーカーの製造基準や国の許認可をクリアして実際に製造され設置されているということに驚かされた。
やがてエレベーターは速度を落とし、目的の階に近づいたことを僕に教えた。
ドアが音もなく開くと、そこには漆黒の闇が拡がっていた。見通すことも出来ず何の目印もない‘完璧な’闇だった。エレベーター内の十分な明かりでさえその向こうに何も照らし出すことは出来なかった。
僕は途方に暮れるのもそこそこに、出口に身を乗り出すと片足で床を探ってみたが、足は床に到達することもなく空しく闇の中をぶらぶらと揺れるだけだった。閉まりかけたドアに突き落とされそうになり少し慌てた。
僕は噛んでいたチューイングガムを紙に包んで丸めると、ポイと闇の中に放ってみた。ガムは予想通り音もなくスウッと吸い込まれていった。闇が少し息をついたような気がした。
――さてどうしたものか。もっと上階に行ってみようか。でもこの階を選択したのは紛れもなく僕自身じゃないのか? だけどこんな真っ暗な世界に降り立って一体何の意味があるんだ? 降り立てるかどうかもわからないのに――僕はエレベーターの出口で堂々巡りの思案をして立ち尽くしていた。
突然フッとエレベーター内の明かりが消え、外の世界よりも更に黒い闇が僕の背後に現れた。その時外の闇の中に一瞬何かが見えたような気がした。するとまるで気圧が変化したかのように、僕はエレベーターの中から外に向かって、何か見えない力によって一気に押し出されそうになった。僕は堪えきれなくなり、半ば諦めと共に意を決して外の闇の中に足を踏み出していった――。
もっとも上昇していたというのは僕の勝手な思い込みに過ぎない。何しろあまりに長い間このエレベーターの中にいたので、上昇していたのかそれとも下降していたのかよくわからなくなっていたのだ。
光源の見当たらないエレベーター内には必要にして十分な光が溢れ、あまりの静けさにその存在を想像することすら出来ないエアーコンディショナーによってエレベーター内は完璧な空気で満たされていた。
壁はブラックパールのような鈍い艶を放ち、汚れたり傷ついたりすることを生まれながらに拒絶しているかのようにそびえていた。
恐らくドアと思われる面の左右には数え切れない程の行き先指示ボタンが整然と並んでいて、その中の“47”だけが所在なさそうに点灯していた。それ以外には階数表示も緊急連絡用のボタンも何も付いておらず、僕は困惑するより先に、こんなエレベーターがメーカーの製造基準や国の許認可をクリアして実際に製造され設置されているということに驚かされた。
やがてエレベーターは速度を落とし、目的の階に近づいたことを僕に教えた。
ドアが音もなく開くと、そこには漆黒の闇が拡がっていた。見通すことも出来ず何の目印もない‘完璧な’闇だった。エレベーター内の十分な明かりでさえその向こうに何も照らし出すことは出来なかった。
僕は途方に暮れるのもそこそこに、出口に身を乗り出すと片足で床を探ってみたが、足は床に到達することもなく空しく闇の中をぶらぶらと揺れるだけだった。閉まりかけたドアに突き落とされそうになり少し慌てた。
僕は噛んでいたチューイングガムを紙に包んで丸めると、ポイと闇の中に放ってみた。ガムは予想通り音もなくスウッと吸い込まれていった。闇が少し息をついたような気がした。
――さてどうしたものか。もっと上階に行ってみようか。でもこの階を選択したのは紛れもなく僕自身じゃないのか? だけどこんな真っ暗な世界に降り立って一体何の意味があるんだ? 降り立てるかどうかもわからないのに――僕はエレベーターの出口で堂々巡りの思案をして立ち尽くしていた。
突然フッとエレベーター内の明かりが消え、外の世界よりも更に黒い闇が僕の背後に現れた。その時外の闇の中に一瞬何かが見えたような気がした。するとまるで気圧が変化したかのように、僕はエレベーターの中から外に向かって、何か見えない力によって一気に押し出されそうになった。僕は堪えきれなくなり、半ば諦めと共に意を決して外の闇の中に足を踏み出していった――。
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