美しい朝2006年07月08日 00時20分04秒

 目が覚めたのに何故か目の前が真っ暗だった。何だか息苦しいし、顔がチクチクして、おまけに何か臭うような……。
「クォラァーッ! 顔の上に乗ってんじゃねえよ」
 俺はこっちにケツを向けて座っている竜之助を払い落とすと、竜之助は「フギャァッ」と言ってベッドから転げ落ちた。
「ざまあみろ! 猫の分際で人間様の顔の上なんぞに乗るからだ。しかも鼻にケツの穴こすりつけやがって、まったく……あぁ、まだ六時過ぎじゃねえか、もおぅっ」
 ガリガリ……ガリガリ……、しばらくして竜之助は今度は俺の胸に上がって顔を引っ掻き始めた。これがまた地味に痛い。尖った爪で鼻を引っ掻かれ目を突かれて俺はブチギレた。逃げていく竜之助に枕を投げつけると、布団を頭から被った。
 すると竜之助、今度は遙かタンスの上から、その太った体で俺の腹めがけてダイブしてきた。
「ウグウェェ……」
 俺はのたうちまわりベッドから転がり落ちると、さすがにもうすっかり観念した。隣では妻が何事もなかったように大きな口を開けたまま、頬をぽりぽりと掻きながら眠っていた。
 竜之助に朝ごはんを用意してやっていると、打って変わって可愛らしい声を出してまとわりついてくる。ふんふん、可愛いもんだ。お前は俺の宝物だよ。愛してるよ。死ぬまで離さないぞ。
 しかし竜之助の食欲は俺の海より深い愛をも軽々と凌駕した。缶詰を皿にあけた途端、待ての声もむなしくもの凄いジャンプ力で皿に飛びつくと、台所の床にひっくり返してしまった。
 台所がぶちまけられた缶詰で惨状を呈している中で、竜之助はそんなことお構いなしに床を舐め尽くすようにエサを貪り始め、俺はキャットフード模様のパジャマを着て呆然とその場に立ち尽くしていた。
 パジャマに付いたエサまで食い尽くそうと俺にまとわりつく竜之助をとっ捕まえてケージに放り込み、丁度起きてきた(が缶詰だらけの台所を片付けるようにいわれて「ヤダよ」と一蹴した)妻をもう一度ベッドに放り込むと、俺は朝からバラバラ死体を始末するような惨めな気持ちで台所を片付け始めた。
 すると「ウォーン……ウォーン……」と猫らしからぬ太い声で竜之助が泣きわめく。
「今度は一体何だよ。水が飲みたいのか? それともトイレか?」
 俺は何とか片付け終わった台所をチェックしながら、ケージから竜之助を解放すると、出かける身支度を始めた。
 これも食い意地の張っているもう一度起きてきた妻と朝食を食べていると、竜之助が俺をめがけて走ってきた。
 ついつい抱き上げて、「ホラァ、竜之助はやっぱり俺だよなぁ!」とか飼い主バカ言ってると、なんだか竜之助の足がベトベトする。なんとそこには肉球の間にまでピッチリと詰まったウンチが鈍くキラリと光っていた。
「ぎやぁぁぁ……!」
 俺の悲鳴に驚いた竜之助はひざから飛び降りると、狂ったように部屋中を走り回った。俺のワイシャツも可愛らしい肉球模様に早変わりで、もちろん走った後にはウンチ色の肉球スタンプが、床にも壁にもソファにもテーブルにも点々と付いていた。ダイニング・テーブルに置いてあったMacがウンチの足跡だらけになったのを見て、俺は「とっても可愛いですよぉ」と竜之助を薦めてきたペットショップの店員の顔を思い出し、呪った。
「とにかく捕まえるんだ」俺は妻と竜之助を挟み打ちにして、床を這いずり回り、ウンチまみれになりながらもやっとの思いで竜之助を取り押さえた。
「もう、だっるーい」と、いつまでも事の重大さを認識しない妻に部屋の掃除を指示すると、俺は竜之助を抱えて風呂場に駆け込んだ。
 竜之助は水が死ぬほど嫌いだ。シャワーから水が出てきただけで、聞いたこともないような声を出してすごい力で暴れ出した。
「やかましい! お前がキチンとトイレに入らないからだろうが! おおかたエサ食い過ぎて下痢でもしたんだろ。水ぐらい我慢しろ!」
 俺は水浸しで、引っ掻き傷だらけになりながら竜之助を押さえつけ、ウンチを洗い流した。終わる頃には竜之助も瞳孔が開ききって、放心状態のままぐったりしていた。
 竜之助をタオルで拭いてやりながらふと時計を見ると、すでに出かけなければならない時間になっていた。あぁ、今日は朝から得意先に行って大事な契約をまとめなきゃいけないんだった。こんなことしてる場合じゃないんだ。俺は妻に竜之助のドライヤーを指示すると、もう一度着替えて出かける準備を始めた。
 俺が玄関先から「行ってくるよ」と顔を上げると、洗面所からもくもくと立ち上っている煙が目に入った。すると何か言う間もなく竜之助がお尻から煙を吐きながら洗面所を飛び出してきて、そのまま「フギャッ、フギャッ」と叫びながら家中を走り回った。
「な、何やってんだ! 捕まえろ!」ドライヤーを持ってぼんやり佇んでいる妻にそう言うと、「消化器だ、消化器」と言いながら俺は玄関を飛び出した。
 戻ってみると妻が居間でひっくり返りながらも、竜之助の後足を掴んだままうんうんと唸っていた。竜之助の前足はフローリングの床でカリカリと空回りをしている。相変わらずお尻からは煙が立ち上り、部屋じゅうを早朝の湖畔のような霧で満たしていた。
 チャンスだ! 俺は消化器のリングを引き抜き、妻と竜之助めがけて思いっ切り消化剤を噴射した。

 もちろん俺は大事な契約には間に合わなかった。おまけに家の中はめちゃくちゃだし、妻は真っ白けだ。
 でも世の中がこんなにもきらきらと輝いているなんて、今まで全然気が付かなかった。いつも慌てて駅へ急ぐから、ゆっくりと家の周りを見たことなどなかったのだ。
 道端に咲く菜の花の鮮やかな黄色が眩しいし、蝶がふわふわと舞っているのを見ると心が躍る。道行く人は笑みを湛えながら、皆が俺に幸せのお裾分けをしてくれているようだ。
 俺は鼻に微かに残る竜之助のウンチの匂いを確かめながら、駅への道をゆっくりと歩いていった。

愛したい2006年07月16日 22時39分10秒

 彼女とは中学三年生の時同じクラスだった。華奢で浅黒く白い目と歯だけが目立つ、ショートカットのボーイッシュな女の子だった。
 家が近かったので一緒に帰ったりすることもあったが、もちろん付き合っていたわけではない。ただ、片えくぼを僕に向けて、はにかみながら喋る口元の残像は、僕の頭の片隅に消えることなく焼き付いていた。
 僕は近くの高校には進まず、百キロほど離れた全寮制の高校に入った。そして一年後に開かれた同窓会で、彼女と再会した。
 彼女は以前より少しふっくらとした印象で、どこかコケティッシュな魅力を身に付けていた。
 結局僕たちは何となく付き合うようになり、距離は離れていたが、手紙をやり取りし、たまに会ってデートをした。僕は柔らかな輝きに包まれた日々を、目を細め身を屈めるようにして過ごした。
 そんなある日、同じ中学出身の友達同士で集まっていた時、どうやら彼女は他の高校の先輩と付き合っているらしいという話を聞いてしまった。確かお前も付き合ってるんだよな、と冷やかされ、居ても立ってもいられなくなった。

 彼女は僕の部屋でカーペンターズを聴きながら、あっさりと浮気を認めてみせた後、悪びれる風もなく言った。
「でも、そんなことどうだっていいじゃない。私があなたのこと好きなのは確かなんだし。それに他の男は体ばっかで、頭は全然空っぽなんだからつまんないよ。私の気持ちを埋められるのは、あなたしかいないんだから――」
 そして僕ににじり寄ると、ズボンのベルトに手をかけた。
「あなたを愛したいの。いいでしょ?」と大きな目で上目遣いに僕を見ながら言うと、やがて彼女はゆっくりと顔を沈めていった――。

 ――僕は愛に身を震わせながら、白い夢の中にいた。
 彼女は市松模様のフロアで誰かとダンスを踊っていたが、その瞳は深い哀しみを湛えていた。雨も降っていないのに何故か傘を差したまま佇んでいた僕は、怖さと恥ずかしさで俯くことしかできなかった。

http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/07/16/447067

Phenomenon-22006年07月25日 17時26分16秒

 引っ越ししたのを機会に、古い写真やネガをデジタルスキャンしようと整理していたとき、ふと一枚の写真に手が止まった。
 そこには、隆々とわき上がる雲が浮かぶ青空が写っていて、眺めているうち徐々に心が青に溶け出していくような気がした――。

                   *

 僕が中学に入ったとき、親にコンパクトながら一眼レフのカメラを買ってもらった。僕はうれしくて、家にいるときも外出するときもそのカメラを離さなかった。
 八月のある日、僕は家から少し離れた広い公園に出かけていった。真夏の空を写真に収めるために、見通しのいい場所が必要だったのだ。
 公園には、もりもりとした入道雲が浮かぶ空がきれいな半球状に覆い被さり、僕は青空のプラネタリウムを見上げながら夏の陽に吸い込まれていった。
 夏の空の醍醐味は、やはり立体感のある雲と底知れず深い空とのコントラストにある。僕は公園の中をあちこち移動しながら、構図の決まった雲を次々とカメラに収めていった。

「――ぼうず、邪魔や」
 突然背後から声をかけられ、びくっとして足がすくんだ。
 振り返るとそこには、ベンチに横になって寝ころんでいるみすぼらしい風体の初老の男がいて、左手を蠅でも追うように振りながらこっちを睨んでいた。
「あっ……す、すいません」
 僕は飛び退くように少しだけその場を離れたが、いったい僕が何を邪魔したのかさっぱりわからず、もう一度その男の黒い顔をうかがった。
「――空が見えん」男は口元を歪めながら、吐き捨てるように言った。
「わしはな、空が降りてくるのをもう何日もここで待っとるんや。ガキの頃はあんなに遠くに見えたんやけどなぁ。今じゃわしを取り込もうとしてこんな近くまで降りてきてやがる。この空が落ちてきたらわしももう終いやな――」
 僕は無性に怖くなって、カメラを抱えなおすと男の前から脱兎のごとく駆けだし、そのまま家までの道を走って帰った。体中から汗が吹き出し、燃えるように熱かった。心臓の鼓動はいつまでも治まらず、遠く耳鳴りが聞こえていた。

 それから数日経って、僕はもう一度その公園に行ってみた。
 公園中を歩いて全てのベンチを見て回ったが、先日の男は見あたらなかった。
 僕は男が寝ころんでいたベンチに腰をかけると、空を見上げて、男がやっていたように空と自分との距離を測ってみた。
 ふと見るとベンチの下から足下を通って蟻の行列がベンチ脇まで続いているのに気がついた。
 体を伸ばしてベンチ脇を覗き込むと、そこには一羽の鳩の亡骸が、まるで疲れ果てて眠るように横たわっていた。安らかに閉じられたその眼は、泣き疲れた後のようにも見えた。
 僕は憑かれたようにカメラのレンズを鳩に向け、その静かで清らかな死を写真に収めた。

                   *

 ――僕は空の写真と鳩の写真を重ねると、そのまま箱の一番底に埋めるようにして戻した。
 あのとき見上げた空は本当に遙か遠くに見えて、そのとき確かに僕は永遠の時間が流れるのを感じていた。