Phenomenon-22006年07月25日 17時26分16秒

 引っ越ししたのを機会に、古い写真やネガをデジタルスキャンしようと整理していたとき、ふと一枚の写真に手が止まった。
 そこには、隆々とわき上がる雲が浮かぶ青空が写っていて、眺めているうち徐々に心が青に溶け出していくような気がした――。

                   *

 僕が中学に入ったとき、親にコンパクトながら一眼レフのカメラを買ってもらった。僕はうれしくて、家にいるときも外出するときもそのカメラを離さなかった。
 八月のある日、僕は家から少し離れた広い公園に出かけていった。真夏の空を写真に収めるために、見通しのいい場所が必要だったのだ。
 公園には、もりもりとした入道雲が浮かぶ空がきれいな半球状に覆い被さり、僕は青空のプラネタリウムを見上げながら夏の陽に吸い込まれていった。
 夏の空の醍醐味は、やはり立体感のある雲と底知れず深い空とのコントラストにある。僕は公園の中をあちこち移動しながら、構図の決まった雲を次々とカメラに収めていった。

「――ぼうず、邪魔や」
 突然背後から声をかけられ、びくっとして足がすくんだ。
 振り返るとそこには、ベンチに横になって寝ころんでいるみすぼらしい風体の初老の男がいて、左手を蠅でも追うように振りながらこっちを睨んでいた。
「あっ……す、すいません」
 僕は飛び退くように少しだけその場を離れたが、いったい僕が何を邪魔したのかさっぱりわからず、もう一度その男の黒い顔をうかがった。
「――空が見えん」男は口元を歪めながら、吐き捨てるように言った。
「わしはな、空が降りてくるのをもう何日もここで待っとるんや。ガキの頃はあんなに遠くに見えたんやけどなぁ。今じゃわしを取り込もうとしてこんな近くまで降りてきてやがる。この空が落ちてきたらわしももう終いやな――」
 僕は無性に怖くなって、カメラを抱えなおすと男の前から脱兎のごとく駆けだし、そのまま家までの道を走って帰った。体中から汗が吹き出し、燃えるように熱かった。心臓の鼓動はいつまでも治まらず、遠く耳鳴りが聞こえていた。

 それから数日経って、僕はもう一度その公園に行ってみた。
 公園中を歩いて全てのベンチを見て回ったが、先日の男は見あたらなかった。
 僕は男が寝ころんでいたベンチに腰をかけると、空を見上げて、男がやっていたように空と自分との距離を測ってみた。
 ふと見るとベンチの下から足下を通って蟻の行列がベンチ脇まで続いているのに気がついた。
 体を伸ばしてベンチ脇を覗き込むと、そこには一羽の鳩の亡骸が、まるで疲れ果てて眠るように横たわっていた。安らかに閉じられたその眼は、泣き疲れた後のようにも見えた。
 僕は憑かれたようにカメラのレンズを鳩に向け、その静かで清らかな死を写真に収めた。

                   *

 ――僕は空の写真と鳩の写真を重ねると、そのまま箱の一番底に埋めるようにして戻した。
 あのとき見上げた空は本当に遙か遠くに見えて、そのとき確かに僕は永遠の時間が流れるのを感じていた。