ギフト2007年09月06日 10時09分12秒

 はい、私も今年で六十六になりましたのよ。ええ、お蔭様で元気でやっております。さすがに寄る年波で暑い季節は体にこたえるようになりましたけどね。
 さあ、何からお話ししましょうか? そうそう、主人とはもう四十年になりますかね。昨年古希を迎えましたが元気にやっております。ただどうもこのところ物忘れがひどくなりましてね。同じことを何度も申しますし、息子の家への道順もわからないんでございますよ。趣味らしい趣味もございませんでね、定年になってからぼうっとしていることが多かったものですから、そのせいでございましょうかね?
 私のほうはまだこの通り元気で仕事に出ておりますのよ。毎日というわけにはいきませんけどもね。ええ、駅前のデパートで贈り物のラッピングや熨斗の名入れをしてるんですよ。なかなか最近の若い人には難しいみたいでね、私のようなベテランは重宝がられるんですよ。
 そういえばこの間、こんなことがございましてね。私がラッピングをしているところに香水の箱がやって来ましてね。これが今どき誰も買わないような香水なんですが、実は主人が昔私にプレゼントしてくれたのと同じものだったんですよ。それが最初で最後でしたけどね。まあ、懐かしくてね、私普段滅多に使わないとっておきの紙とリボンをふんだんに使って、心を込めて贈る人の気持ちを包み込みましたのよ。
 ところがその日家に帰ってくると主人が後ろ手に持った包みをぶっきらぼうに差し出すので、見てみたら何と昼間私が包んだ香水じゃありませんか。もうびっくりして。ただその日は私の誕生日でも何の記念日でもありませんでしたけどね。きっと物忘れが進んで、埋もれていた昔の記憶の欠片が溶け出して蘇ったんでございましょうかねえ。まあどっちにしても嬉しいじゃありませんか、ねえ?
 でもね、昔貰った香水の箱は大事にしまってあったはずなんだけど、これがどうしても見当たらないの。何故なんでしょうねえ?

箱の中の男2007年09月07日 11時32分01秒

 道端に箱が落ちていた。それは淡く鈍い光沢を放ちながら辺りの光を反射していた。正面に回りこむと黒くぽつんと鍵穴らしきものが見えた。ぐるりと回ってみたがそれ以外は何の変哲もない四角の箱だった。
 鍵穴の前に立ち思案していると、
「おーい」
 と声が聞こえた。念のため辺りを伺ってみたが、紛れもなくそれは箱の中から発せられた声だった。
「おーい」
 僕は身をかがめ、鍵穴を見つめた。
「おーい、あんた。そこの目の前にいるあんただよ。お願いだ。ここから出してくれ!」
「え? ど、どうすればいいんです?」
「どうすればもこうすればもないだろ。鍵穴が見えねえのかよ。鍵をそこに差し込んでからゆっくり捻って開けるに決まってるだろ!」
「か、鍵はどこにあるんです?」
「あのなぁ、俺は今その鍵のかかった箱の中からこうやってひそやかに喋りかけてんだぞ。そんなことわかるわけねえじゃねえか!」
「そ、そう言われても……僕も鍵がどこにあるかなんてさっぱりわからないですよ。今ここを通りがかっただけですし……」
「ふん、そりゃ一理あるな。怒鳴って悪かった。だがな俺の身にもなってくれよ。こんな箱に閉じ込められてもう三日も家に帰ってねえんだよ。カアチャン怒ってるぞぉ、きっと」
「で、でも何でそんなところに入ってるんです?」
「うん、そりゃあな、話せば長いわけがあってな、まあ聞いてくれよ……ちょっと待った、入り組んだ話はお互い顔をつき合わせてやるのがスジってもんだ。あんた、この鍵穴から中を覗き込んでくれ。俺の顔が見えるかも知れねえ」
「あ、は、はい。……こ、こうですか?」
 僕は箱にぴったりと体を付けると目の前にある鍵穴を覗き込んだ。
「そうだ、その調子だ。もっと中を覗くんだ」
「は、はい、覗いてます」
 僕は痛くてあとが付くくらい顔を鍵穴に押し付けた。箱の中はいくら目を凝らしても真っ暗で、もちろん男の顔など見えるはずもなかった。
 すると暗闇の向こうから徐々に光が差し込んできた。光は猛烈な勢いで僕に向かって進んできた。今度は明るすぎて回りがよく見えないくらいだった。光はやがて収束していき、僕の目の前で小さな光の点になった。よく見るとそれは鍵穴の形をしていた。そして僕も僕を包んでいる空間も全てが真っ黒になった。鍵穴の向こうにはヤクザ風のでっぷりした男が一人、扇子を使いながらしゃがみこんでこっちを見ていた。
「おう、ありがとよ。おめえのお陰でまたシャバに戻れたぜ」
「あ、あのう、僕はいったいどうなっちゃったんです?」
「知るか、そんなこと。まあ礼に俺の話を聞かせてやるよ。俺が通りがかった時は猫がニャーニャー鳴いててな、俺って無類の猫好きだろ、だからこの鍵穴から必死に中を覗こうとしたんだよ。そしたらいつの間にか俺と猫が入れ替わってたんだな。猫は薄情にも箱に砂をひっかけてどっか行っちまいやがった。仕方ねえからお前みたいなぼうっとしたのが通りがかるのをずっと待ってたってわけさ。ま、そういうこと。俺も急ぐから、じゃあな、あばよ」
 そう言って男は立ち上がり、鼻歌を歌いながら遠ざかっていった。
 僕は箱の中で膝を抱え涙をこらえながら(真っ暗なので本当に自分がそうしているのかどうか自信はなかったが)、そのまま何日かを過ごした。夜は全てが闇に包まれて本当に怖かった。昼間鍵穴から射し込む小さな光が唯一の慰めであり、支えだった。
 鍵穴から外を覗くと、時々怪訝な顔で箱を見ていく人もいたが、とても前の男がやったように声をかけることは出来なかった。子供に箱の回りをドカドカと蹴られたり、雨の音で眠れない夜もあったが、考えてみれば箱の中の生活もそう悪くないような気がしてきた。僕は今世の中のあらゆる面倒からきれいさっぱり遮断されているのだ。僕は僕自身でありさえすればよく、他には何も必要なかった。僕は醜悪で厄介なだけの人間関係にもう一度まみれる事など考えられなくなっていた。
 僕はここにもうどれくらい(そしてこれから一体どれくらい)いるんだろうか? もちろん既に何日目なのかはわからなくなっていたが、しかし鍵穴が徐々に小さくなっていて、そこから射し込む光も日に日に弱まってきていることに僕は気が付いていた。

自己嫌悪2007年09月11日 14時39分55秒

朝まで夢うつつに心惑い
慢心の愛にさえ心震えず
夜の冷たいガラスのように
何も言えず何も聞こえず
卑しい口元と潰れた目で笑い
目も見えず手足もない私を
誰か哀れんでくれるなら
蔑みの瞳にもすがるでしょう
裸の私は愛の棘に鞭打たれ
涙を流して地に溶けるでしょう

2007年09月12日 13時53分12秒

 倫子の家を出て駅までの道、ふとポケットを探るとオレンジ色のタグがぶら下がった鍵が出てきた。コインロッカーの鍵のようだ。
「もしもし、あら、どうしたの? え? 鍵? 知らないわよ。何で私がわざわざそんなもの黙ってあなたのポケットに忍ばせなきゃいけないのよ。意味わかんないでしょ。あなたが何か預けたまま忘れてるんじゃないの。ちょっと今手が離せないから、じゃあね――」
 家に帰って妻にも同じことを聞いてみる。倫子と同じ答えだった。それを思わず口に出しそうになって妻が少し変な顔をした。どうやら俺も含めて誰もこの鍵に覚えがないらしい。こうなれば開けてみるしかないだろう。
 翌日俺は仕事が終わってから、タグに書いてある駅まで電車を乗り継いた。三十分ほどかけてあちこちあるコインロッカーの中から目指す番号の扉の前にたどり着いた。一日分の超過料金を投入してから、鍵を差込みゆっくりと捻った。ガチャガチャとコインの落ちる音を聞きながら扉を開けると、中からあっけないほど広い空間が現われた。一見何もないように見えた庫内にはまたコインロッカーの鍵が一つポツンと置いてあった。
 結局その鍵を持ち帰り、また後日違う駅のコインロッカーを開ける。これを俺は六回繰り返した。倫子は
「ひょっとしたら奥さん、何か証拠を掴んでるんじゃない? そしてそれとなくあなたに仄めかしてるんじゃないかしら。それでそのうちあなたに決定的な証拠を突きつけて懲らしめてやろうとしてるのよ。きゃあ、どうしよ。私殺されちゃうかもしれないよ」
 などどあまり愉快でもない話をしてケラケラと笑った。
 妻にはあれ以来鍵の話はしていないし、妻も何も聞こうとはしなかった。今まで通りの将棋崩しのような生活が続いていた。際どいところを攻めないで無難な駒を拾ってさえいれば平穏無事なのだが、ついうっかりと切り崩してしまうこともあるし、倫子との関係のようにあるいはわざと危険な突端に挑むこともあった。もちろん崩れて欲しくなどはなかったが。
 しばらくして倫子と連絡が取れなくなった。電話は繋がらないし、家に行っても中にいる気配はなかった。何人かの倫子の友達にも連絡したがどこにもいない。
 俺はハッとして一番新しい九個目の鍵を持ってコインロッカーを開けに行った。そのロッカーは俺の最寄り駅の中にあった。フウッと大きく息を吐いてから扉を開けると、中から何かがザーッと音を立てながら流れ出てきて、途切れることなく俺の足元にキラキラと光りながら降り積もった。それは様々なペイントが施された大量のネイルだった。

ジョリー・ロジャー2007年09月18日 01時37分00秒

 ――ドーンという大きな音と共に砲弾が脇腹に命中し、もはや戦闘不能となった船はただ沈没するのを待つだけだった。船体はメキメキと音をたて、中央から二つに折れ曲がって今にも海に吸い込まれそうだった。

 いかにも金持ちの乗っていそうな大型クルーザーに狙いをつけ旗を掲げたまではよかったが、ふいにどこからともなく駆逐艦が現われ、にわかに戦場と化した海の上は轟音と怒号に包まれた。いかに屈強な男達が乗った海賊船とはいえ、駆逐艦を相手にそう長く持ち堪えられるものではない。敵に近づくどころか、凄まじい砲撃や銃撃を浴びて人も船もいまや瀕死の状態だった。
 船長はボートに財宝の詰まった宝箱を積み込むように指示し、残りの海賊達と共に船を離れることにした。彼らの見ている前で船は断末魔の叫びを上げながら海の底に消えていった。
 船に最後の別れをしたのも束の間、今度は重くなりすぎたボートに水がどんどん入ってくる。海賊達は水をかき出しながら、仕方なく宝箱を捨てようとしたがこれがピクリとも動かない。ならばと次は箱を開けて中の宝を捨てようとしたが、どうやら鍵は船と一緒に沈んでしまったようだ。こうなればボートを捨てて海に飛び込むしかない。ぐるりを地平線に囲まれた洋上だが、運が良ければどこかに泳ぎ着けるかもしれない。海賊達は覚悟を決め次々と海に身を投じた。
 ボートの上では宝箱に寄り添うように一人船長が立ち、遙か遠くを見つめていた。船長はロープで自分の体を宝箱にしっかりと括りつけると、どっかと座りこみ腕を組んで目を閉じた。そして海の中から見守る海賊達の目の前で、ゆっくりとボートもろとも海中に沈んでいき見えなくなった。

 海は何事もなかったように静けさを取り戻し、地平線に沈む夕陽が空と海を赤く染め上げていった。そして程なく冷たい夜の闇が舞い降りて、空と海を一つにしていった。月も星も風もない、永遠を見通せそうな暗闇が海を包んでいた――。


http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2007/09/18/1804116

ほおずき2007年09月19日 17時19分32秒

 暑さのわりに湿気が少ないせいか、透き通るような直截な日差しを浴びて、僕は目を細めながら空を見上げた。高く青い空に浮かぶ薄っすらとした雲は、人の心のようにいつもそこにあるようで実は留まることのないひどく儚げなものに映った。
 田舎の空気は、あっという間に僕を数十年前に引き戻してしまう。風や土の匂いが体中に染み渡り、その一部となって溶け出してしまいそうになる。好むと好まざるとに関わらず、今でも僕はこの風景の一部として存在していた。
 車を降りると、懐かしい家並みが目に入った。目の前に建っているのは父親の実家である。やけにディテールがクリアなのは、昨夜、父親が撮ったというただ実家の周りの風景を収めただけのビデオを延々と見せられたせいだろうか。
 盆に親子四人揃って墓参りに来るのは何年、いや何十年ぶりだろう。田舎で働く弟はともかく、僕があれこれと理由を付けてほとんど帰ることがなかったせいだ。
 その間この家にも随分いろいろなことがあったようだ。早くに祖父母を亡くしてから長男である伯父が長らく家を取り仕切っていたが、それからまるで何かに呪われたかのように家族は次々と不思議な死に方をしていた。酒が一滴も飲めないのに泥酔して車を運転して事故死したものもいれば、突然おかしなことを口走るようになり部屋に引きこもって出てこなくなり衰弱死してしまったものもいた。伯父自身も極めて悪性のガンに冒され、全身を切り刻まれた挙句死んでしまい、最近では伯父の末っ子が納屋の中で車の排気ガスを吸い込んで自殺したばかりだった。結局家に残ったのは伯父の妻である伯母だけだったが、伯母もこのところ体を悪くしていて、今では瑞希という次女の嫁ぎ先とこの家を行ったり来たりしているらしかった。
 僕たちが着いた時には、盆ということもあってか伯母と瑞希が家にいた。伯母はエアコンの効いた離れのベッドで休んでいたが、僕たちを迎えるために起き上がってベッドに腰掛けていた。覚えている限りの伯母の様子からすると今は歳をとったのはもちろんだとしても、随分と小さくなってしまったような気がした。伯母は一体どんな病気なのか僕にはよくわからなかったが、一見元気そうなその姿には何かくすんだ影のようなものが感じられた。
 瑞希はそんな伯母に寄り添い、静かに微笑んでいた。僕が瑞希に会うのは三十年ぶりくらいになるだろうか。その頃のことが蘇ってきた。

                    *

 当時学生だった僕は受験のため京都に宿を取る必要があった。両親の計らいで、当時京都の郵便局に勤めていた瑞希の夫の家にしばらくの間世話になることになった。瑞希はまだ二十代で、郵便局の職員住宅に夫と小さな女の子と三人暮らしだった。その時瑞希の夫には初めて会ったが、まるで熊のような風貌で少しがっかりした。瑞希ともゆっくり話をするのは多分その時が初めてだったと思う。
 瑞希の家族は僕を暖かく迎えてくれて、とても居心地が良かった。僕が無事に受験を済ませた後、一家で僕を遊びに連れて行ってくれたりした。
 もっとゆっくりしていけばいいと瑞希は言ってくれたが、そういうわけにもいかない。そして明日は帰ろうかという日の夕方だった。僕が帰ってくると家には瑞希一人だけしかおらず、見ると何故か彼女は泣き腫らした目をしていた。どうしたの? と訊いても首を振るだけだった。僕は瑞希をそっとしておいて、部屋に戻り買ってきた本を開いた。隣の部屋からは瑞希の鼻をすする音が聞こえてきていたが、やがて聞こえなくなった。僕がそっと様子を見に行くと瑞希は倒れるように横になり眠っていた。僕は自分の部屋にあった毛布を持ってきて瑞希にかけようとしてひざまずいた。しかし瑞希のブラウスの胸元からはひしゃげた胸の膨らみがのぞき、しどけなく開いたスカートの裾からはすべらかな素足の太股が伸びていた。
 僕は毛布を持ったまましばらく動けなくなった。これほどまでに無防備な女を目の前にした十代の男としては当然のことだったと思う。しかし瑞希は僕のいとこなのだという一点だけに必死にすがり、何とか自分を抑えることができた。僕は毛布をそっと瑞希にかけるとまた部屋に戻った。もう一度本を開いてはみたものの、まったく頭には入ってこなかった。
 その夜、僕は悶々として寝付けず、仕方なく静かにマスターベーションをした。何も考えていなかったので始末に困り、まだ履いていない靴下の中に放出した。
 翌朝、新しい靴下を履くことはできなかったが、僕は世話になった瑞希の家を後にした。瑞希は目をしょぼしょぼさせながら僕を駅まで見送ってくれた。

                    *

 今目の前に立つ瑞希は、もうすっかり立派な中年のおばさんになっていた。確かに失ってしまったものもあるが、アクの抜けきった静かな佇まいをしていた。あの時の一家は今どうしているのだろうとふと考えた。
 僕たちは伯母とひとしきり世間話をしてから、裏手にある墓地に参ることにした。急斜面の坂を上ると、大小二十ほどの墓が並んでいる懐かしい墓地だった。代の新しい幾つかの墓は新調されたばかりで戒名板もしつらえてあった。
 墓地の隣には伯母と瑞希が植えたのだという何本かのほおずきが生っていて、たわわに朱と緑の房をつけていた。
 僕たちは帰ろうとして伯母に挨拶してから車に向かおうとすると、瑞希が見送りに着いてきてくれた。僕はすっと瑞希に近づくと、僕なりに万感の思いを込めて
「ご無沙汰してます」
 と言うと、瑞希は
「あら、ご苦労様でした」
 と、何の屈託も引っかかりもない調子で言った。
 車の中から瑞希に軽く会釈しながら、僕は何かやり切れない気持ちになった。


「あら、懐かしいわねぇ、ほおずきなんて」
 妻は嬉しそうにいそいそと花瓶を出してきて、僕が田舎から持ち帰ったほおずきを生けた。
 僕はほおずきの実を一つ口に頬張ると、頼りなげな音を鳴らしながら遠いあの頃を思い出していた。