ある再会2009年04月02日 14時38分00秒

 僕は駅前の薬局を出たところで立ち止まった。手には今買ったばかりのビオフェルミンが入った袋を抱えたまま。下痢がなかなか治らない家の猫に飲ませようと思って買ったものだ。
 左に向かって歩き出そうとしたところを後ろから誰かに呼び止められた。およそ僕を街中で呼び止める人など今まで会ったことがないのでかなり驚いたが、名前を呼ばれたのだからどうやら間違いではなさそうだ(僕の名前は結構珍しい)。僕は確信と諦めを持ってゆっくりと振り返った。
 そこには確かに見覚えのある顔が立っていた。半年ほど前まで通っていたカルチャーセンターの俳句教室で知り合った男だ。一年くらい通っていたのだが次第に興味が薄れてきて足が遠のいてしまっていたのだ。今では俳句を詠んだりすることもまったくなくなっていたが、それまでの習慣で俳句の月刊誌だけはまだ何となく買っている。しかしいったい僕が何を求めて俳句を始めたのかなどということはもうどうでもよくて、今問題にするべきはその男の風体だろう。
 男は僕よりも少し若くて、細身で背が高かった。頭はスキンヘッドでバッタのような顔をしていて、何も食べていない時でも口をもぐもぐと動かしていた。今僕の目の前にいる男は確かに少し口を動かしているようにも見えるが、その頭には安手の金髪のカツラをかぶり、ロリータ風のフリフリがついたピンク色のミニのワンピースを着ていた。もちろんその毛だらけの足には折り返し付きの白いソックスに先の丸い赤いエナメルの靴を履いている。男は僕を見ながら少し首を傾げてしなを作った。
「――どうも――お久しぶり」
 何だか事情も複雑そうだしこんな格好をした男と立ち話をする勇気も無かったので、僕は彼をそこからなるべく人目につかない路地裏にある小さなカフェに連れて行った。
 その店には僕も何度か入ったことがある。僕と同じくらいのマスターが一人でやっていて、テーブルもないカウンターだけのシンプルな内装と極端に品数の少ないシンプルなメニューが特徴だ。よほどコーヒーに自信があるらしくメニューはオリジナルブレンドとお勧めストレートの二種類だけだ。季節によってそれにアイスコーヒーが加わるくらいであとは何もなし。シンプルだ。
 今日のストレートのグァテマラを二つ注文すると、僕たちは並んでカウンターに向かって腰掛けた。コーヒーが出てくるまで男はそわそわと落ち着かない様子だった。金色の髪の毛を指でくるくるともてあそんでから、ネイルがはがれていないか入念にチェックした。
 しばらくすると僕たちの目の前に二つのコースターが置かれて、その上に二つのマグカップが乗せられた。マスターは終始無言だ。男はカップの口をのぞき込むようにしてから、キョロキョロとカウンターに何かを探し始めた。僕は気がついてマスターに目配せをした。マスターはうなずきもせずカウンターの奥に消えると、砂糖とミルクとスプーンが乗った小さな皿をうやうやしく持って現れ、それを男の目の前にやはり何も言わずに置いた。男はペコリと会釈すると砂糖とミルクを次々に手に取り、カップからコーヒーがあふれ出すくらいたっぷりと入れた。
「びっくりしたでしょ。私のこの格好」
 コーヒーを一口すすり、おそらくはその熱さに顔をしかめながら男は言った。
「うん、でも、そのせいかな、元気そうだ」
 男はにっこりと笑った。
「ありがとう」
「俳句はまだやってるの?」
「ううん、あなたが来なくなってから三ヶ月くらいかしら。私もやめちゃった。まあもともとそんなに向いてるわけじゃないし、今思えば何であんなことやってたのかしらね。でもあなたはやめることなんかなかったのに。最後の発表会でのあなたの作品なんてすごくよかったわ」
「さあ何でだろうね。何か別の新しい光に誘われて森を抜け出したのはいいけどまだ明確な答えを持ち帰れないで彷徨ってる、って感じかな。でも君はその何かを見つけたみたいで本当にうらやましいよ」
「あら、まだわからないわよ。これが私の本当の姿なのかどうか、私にはもちろん誰にもわかりはしないわ。私もまだまだ森には帰らないつもりよ」
 男はそう言ってカップに残っている冷めた最後のコーヒーをぐいっと飲み干した。
 帰り際店を出ようとした僕たちにマスターが、よかったらどうそ、と僕たちが使っていたコースターをくれた。店のロゴが印刷された樹脂製のステッカーになっていて、僕は知らなかったが記念品として誰にでもくれるのだという。
 もう一度駅に戻ってから、僕は男と別れた。その格好のまま電車で帰るらしい。ふと確か彼には奥さんも子供もいたことを思い出した。
 家路の途中で近くの音楽専門学校に通う学生の集団とすれ違った。一際背の高い金髪、ピアス、革ジャンの学生が墓碑のように背中に背負ったギターケースの後ろに、さっきもらったコースターのステッカーが貼ってあった。
 僕は揺れながら次第に小さくなっていくそのステッカーを眺めながら、ポケットのiPodのボリュームを手加減もせずぐいっと上げた。

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