早春賦 ― 2009年04月16日 10時31分05秒
寛治は一年ほど前に長年連れ添った妻を亡くしてから長男の家族と同居していたが、やはりうまく気遣いが噛み合わず居づらくなり、蓄えてあった金で老人ホームに入ることにした。
最初のうちは幾分心細かったものの、自分とよく似た境遇の年寄りたちに囲まれて暮らすうちにだんだん慣れてきた。ここでは明日のことだけを考えて過ごしていればいいし、それ以外のことを考える必要もなかった。
その中にいつも車椅子に座っている、小さな顔に小さな眼鏡をかけた智子というお婆さんがいた。智子は寛治より五つ下で、いつもその眼鏡の奥から三日月を横にしたような形の目で上目遣いに寛治を見上げていた。
寛治は智子の車椅子を押して散歩に出かけた。ホームから桜並木を抜けて小高い丘まで、寛治は智子の小さな頭を眺めながらふうふうと言って車いすを押した。乾いた透明な風が吹き渡る丘には一面に菜の花が咲いていた。黄金色に輝く絨毯の上を、寛治と智子はいつまでも歩いては立ち止りを繰り返した。まるで二人に訪れたまばゆい光に戸惑うように。
ホームでの生活にもすっかり慣れた頃、寛治は体の不調を覚えるようになった。生まれてこのかた医者にかかったことなどない寛治だったが、さすがに寄る年波かと観念してホームから紹介された病院で診察を受けた。寛治は詳しい病状を知らされることなく、長男夫婦が手配した大学病院に入院させられ、毎日辛い治療と戦うことを余儀なくされた。
半年ほどが経って、小康状態となった寛治は老人ホームに帰りたいと長男に頼んだ。なんとか外出許可をもらい、久しぶりにホームを訪ねてみた。ところが懐かしい顔ぶれの中に智子の姿は見あたらなかった。智子は寛治のいない間に風邪をこじらせ肺炎で亡くなっていたのだ。
寛治は一人で桜並木を歩き、あの丘にやってきた。そこでは一年前と変わらず菜の花が咲き乱れていて、鮮やかな黄色の炎は立ち尽くす寛治の足下でいつまでも揺らめいていた。
最初のうちは幾分心細かったものの、自分とよく似た境遇の年寄りたちに囲まれて暮らすうちにだんだん慣れてきた。ここでは明日のことだけを考えて過ごしていればいいし、それ以外のことを考える必要もなかった。
その中にいつも車椅子に座っている、小さな顔に小さな眼鏡をかけた智子というお婆さんがいた。智子は寛治より五つ下で、いつもその眼鏡の奥から三日月を横にしたような形の目で上目遣いに寛治を見上げていた。
寛治は智子の車椅子を押して散歩に出かけた。ホームから桜並木を抜けて小高い丘まで、寛治は智子の小さな頭を眺めながらふうふうと言って車いすを押した。乾いた透明な風が吹き渡る丘には一面に菜の花が咲いていた。黄金色に輝く絨毯の上を、寛治と智子はいつまでも歩いては立ち止りを繰り返した。まるで二人に訪れたまばゆい光に戸惑うように。
ホームでの生活にもすっかり慣れた頃、寛治は体の不調を覚えるようになった。生まれてこのかた医者にかかったことなどない寛治だったが、さすがに寄る年波かと観念してホームから紹介された病院で診察を受けた。寛治は詳しい病状を知らされることなく、長男夫婦が手配した大学病院に入院させられ、毎日辛い治療と戦うことを余儀なくされた。
半年ほどが経って、小康状態となった寛治は老人ホームに帰りたいと長男に頼んだ。なんとか外出許可をもらい、久しぶりにホームを訪ねてみた。ところが懐かしい顔ぶれの中に智子の姿は見あたらなかった。智子は寛治のいない間に風邪をこじらせ肺炎で亡くなっていたのだ。
寛治は一人で桜並木を歩き、あの丘にやってきた。そこでは一年前と変わらず菜の花が咲き乱れていて、鮮やかな黄色の炎は立ち尽くす寛治の足下でいつまでも揺らめいていた。
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