ダンス男2006年06月01日 16時28分41秒

 私は電車に揺られながら、眼鏡越しに汚れた窓の外の景色に目を泳がせていた。生活は特別苦しいわけではないが、子供もおらず夫に顧みられることもない、空っぽの心と体を持て余す毎日だった。ブランド品を買い揃え、女友達と高級レストランに通ったり夜遅くまで飲み歩いたりするのがせめてもの慰めで、私は夫に気兼ねなく使えるお金を得るためパートタイムで働きに出ていた。
 電車が地下に滑り込んだ時、私の腰にそっと誰かの手が回るのを感じた。
「――踊りませんか?」
 耳元で囁く声に慌てて振り向くと、日に焼けた笑顔に白い歯を覗かせて燕尾服を着た男が立っていた。
 返事も待たずに男はそのまま私の手を取ると、混み合った電車の中を軽やかに滑り出した。車内にはモーゼの仕業としか思えない空間がひらけ、車内放送ではワルツが流れていた。
 踊ったことなどないはずの私だったが、男のリードに身を任せながら蝶のような優美なステップで、スカートを翻しふわりと漂うように電車の中を踊り抜けた。乗客の喝采を浴びるうちに、私は次第に高揚し身悶え、歓喜に打ち震えて、味わったことのない充足感に恍惚となった。
 私は何かをヒールの踵で踏みつけた拍子によろめいた。目の前で労務者風の男が私に何事か怒鳴っていたが、男の匂いはかぐわしく、思い切り吸い込むと体の奥がじんと痺れた。
 気がつくと私の右手はシート脇のポールをしっかりと握りしめ、左手は自分のバッグを形が崩れるほど抱いていた。いつの間にか電車の中も普段と変わらない様子で、ひび割れた声が私が降りる駅に電車が近づいたことを知らせていた。
 大勢の乗客と一緒にホームに吐き出されると、私はしばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと眼鏡を外すと小さくはにかみ、定期入れをまさぐりながら改札に向かって歩きだした。
 私は私の中にぽっかりと空いている暗い穴と、それを埋め合わせる秘密を知ってしまったのだ。

http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/02/20/260987

コメント

_ いづみ ― 2006年06月08日 21時22分13秒

実はこの「ダンス男」、数ある文章塾の投稿作品のなかで、個人的に最も「えろい」作品の一つだと思ってまーす。時々思い出して耳まで赤くなりそうなくらい、好きです、ハイ。

_ くれび ― 2006年06月09日 16時53分25秒

to:いづみさん
自分でもこれは結構気に入ってるんですよねぇ。
わかりました、これからも文章塾一のエロ作家目指して邁進します。
でもただでさえ最近そっち方向なような気も(^^;)。持って生まれた血が怖いです。

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