猫とアップダイク2006年06月01日 16時29分26秒

 朝のダイニングテーブルには不吉な緑色で印刷された薄い紙が広げて置かれ、前には最近眼鏡もかけなくなって少し華やいだ様子の妻が座っていた。
 私が片側だけ空いている欄に署名して判を押すと、彼女は紙を取り上げ吟味するように見てから、折りたたんでバッグにしまい込んだ。そして「じゃ、私、出しておくわね」と言うと唇の端だけで小さく微笑み、スッと立ち上がった。
「荷物はまた今度取りに来るから。……風邪、大事にしてね」玄関から声だけが響いて、ドアがバタンと閉まる音がした。
 彼女はもう昔のような笑顔で笑うことはなかったし、私も諦めることを覚えるようになっていた。これも必然の終幕なのだろうが、彼女にとって幸福な卒業となることを祈るだけだ。

 ひどい頭痛がしていたが、昼までベッドで休んでから簡単な昼食をとって薬を飲むと、少し気分も良くなった。私は枕に体を持たせかけると、読みかけのアップダイクを開いた。
 二匹の猫たちが次々とベッドに上がってきて、私の足下にまとわりついた。彼らはお互いの顔を舐めあっていたかと思うと、生まれたての恋人たちのように抱き合いながらまどろみ、倒れた兵士のように折り重なって眠った。幼くして睾丸と卵巣を摘出され、生後のほとんどをこの家の中だけで過ごしている彼らは、いったいどれほどの人生の滋味とでもいうべきものを享受できているのだろうか、とふと考えた。
 窓の外には冷たい風と暖かな日差しにゆらゆらと洗濯物が踊り、その向こうには沈んでいく船から見上げるような美しい青空が広がっていた。透明で濃密な時間が部屋の中を満たし、私はアップダイクを読み、猫たちは静かに眠り続けた。

 私の手から本がパサリと音を立てて滑り落ちると、メスは慌てて廊下に飛び出していき、オスは布団の中に潜り込んで私に体をぴったりと寄せて丸くなった。私はほのかな猫の体温を感じながら、そのまま深い闇の底に沈んでいった。

http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/03/20/296143

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