ソフトシェルクラブ2009年04月08日 16時36分35秒

 昼休憩が終わって仕事に取りかかった時、突然顎が痛くなった。左右に動かすと軋むように痛み、口を開けることもできなかった。痛みは次第に増していったが帰るわけにもいかない仕事があって、結局行きつけの医者にかかったのは夕方の六時を回っていた。
「あぁ、これは顎関節症ですねぇ」こともなげに医者は言った。
「何かのストレスが原因でしょう。まあしばらくおとなしくしてれば治りますよ。全くストレスってやつは時に訳のわからない症状を引き起こしますからねぇ。患者さんで若い頃暴力が原因で流産されてからかなり深刻な病気にかかってしまった人なんかもいましてね。もう二度と昔の健康な体には戻れないでしょうねぇ」

 昨日まで何もなかったはずの家の近くの畑に一面の菜の花が黄色い海のように浮かび上がり、散歩をしていた犬たちがその周りにたむろし何度も吠えていた。
 正面から女子学生が数人自転車を押しながら歩いてきて僕を見咎めるようにしながら通り過ぎると、ケラケラという笑い声が夕闇にこだました。
 菜の花畑と道を隔てた反対側の田んぼには細かく刻まれたワラが撒かれていて、その上を無数のスズメが地面をついばむようにしながら覆っていた。見上げるとあたりの電線にもスズメが鈴なりになって止まっている。
 僕は遠回りをしたスーパーで夕食にソフトシェルクラブのサンドイッチを買った。

 ドアの鍵を開けて人のいる気配のない部屋に入っていく。少し前までは彼女が笑顔で出迎えてくれる予感に満ちていたはずなのに。そうだ……彼女は……いや、まだ彼女はここにいた。もう二度と僕に微笑みかけることはないし、話すことすらできないけど。自分が誰かも僕がいったい何なのかもわからないんだろうけど。今彼女は絶望としてここに存在し、僕はそれがやがて何かに変質していくことを唯一の希望として同じくここに存在している。僕は自分に何かを問うことはもう止めた。そしてただここに存在し続ける。

ミントキャラメル2009年04月09日 15時05分20秒

「人が尊大に見える時は注意した方がいい。そういう時はたいがい自分も尊大になっているもんだからな」
 昔、祖父が僕に言った言葉だ。祖父は人物ではあったらしく田舎の市役所で収入役をやっていたが、女に入れあげた挙げ句、横領が発覚して失脚してからは家から出ることもなく寂しい晩年を送った。最後は毒素が体中に回り、足を切断してしばらくしてから内臓もやられてしまいあっけなく死んでしまった。

 僕は帰りを急いでいた。妻が突発性難聴を患い、もともと体が弱いために大事をとって先週から入院していたのだが、ようやく今日退院できることになって妻を迎えに行かなければならなかったのだ。
 駅の改札を抜けホームへの階段を駆け下りている時、下り用の階段を下から上がってきた男と肩がぶつかってしまった。思わず顔をしかめて振り向くと男ももの凄い形相でこちらを睨みつけていた。階段を上がってくる方が悪いんだろ、と心の中で悪態をつきながら男を無視してホームへ降りていった。
 ちょうど帰宅ラッシュでホームもごった返していた。人混みをよけながらホームを進む。ふいに目の前に前を歩くおばさんがころころ転がしながら引いているキャリーバッグが現れた。早足で歩いていた僕は避けることもできずそのバッグを思い切り蹴とばしてしまい、こっちもひっくり返りそうになった。おばさんは驚いたように振り向き、「危ないわねー」と非難めいた口調で僕に言った。僕は少し頭を下げるように顔を伏せながらバッグの脇を通り抜けさらに足早に進んでいった。人混みの中でそんなバッグを引いてたら邪魔でしょうがねえだろうが、そっちこそ気をつけろ、とこれまた心の中でそのおばさんを罵った。
 電車の中はもちろんもの凄く混んでいて、前にいるおじさんが肩から提げたビジネスバッグの角が僕の腕にぐりぐりと押しつけられ、後ろの男のイヤホンから聴いたことのないようなシンバルの連続アタックが僕の頭の中でキマリ続けた。僕の左のつま先は足が入っていない先端の一センチくらいをずっと踏まれていて抜き取ろうと思ってもびくともしないし、どこからか信じられないくらい酷い口臭が漂ってきて頭がくらくらした。
 途中の乗降客の多い駅でかなりの客が降りて車内にも余裕ができた。座席にもいくらかの空席ができ、精根尽き果てた僕は近くの空いた席に座ろうとした。その時、僕とシートの隙間に滑り込むようにして白い頭に茶色い顔をした女子高生が二人、ケラケラと笑いながら転がり込んできた。僕はとどめを刺された格好になり、その女の子たちの前で力なく吊革につかまった。もう女の子たちに悪態をつくような気力すら残っていなかった。
 すると左側に座った女の子が鞄の中をゴソゴソしていたかと思うと小さな箱を取り出して、その中から何か小さなものを一つ摘んで僕の目の前に差し出した。割り込んでしまったことへの彼女なりの気持ちなのだろうか。僕はそっと手を差し出して恐る恐るそれを受け取った。女の子は唇の端に力を込めてにっこり笑うとまた友達と大きな声で話を始めた。
 ようやく目的の駅に着いて、ホームに出てから何回も深呼吸するとようやく人心地がついた。左手の中ではさっき女の子にもらった物が何だか柔らかくなってグニャグニャしている。そっと包み紙を拡げてみるとそれは長方形をしたキャラメルのようだった。口に放り込むとミントの爽やかな香りとキャラメルの甘さが口の中で溶け合い、ミントが大の苦手の僕はそのままホームのゴミ箱を探して走り出した。

DVDドライブ2009年04月10日 16時22分58秒

メインPCをiMacに替えたのはいいんですが、当然のことながらDSのための今までのCDリッピング環境を見直す必要が出てきました。内蔵ドライブはSATAのパイオニアK06Aですが、スロットインであるのと挿入口の縁が切り立ったアルミであるという理由で常用はためらわれたため、外付けのDVDドライブを購入することにしました。
なんやかやありまして、結局アイオーデータのDVR-UN20GL、パイオニアのDVR-X162J、プレクスターのPX-810UFの三台を購入して聴き比べてみました。それぞれの第一印象としては、アイオーデータは響きは綺麗ですがバランスが高域寄りで音が少し薄い感じ、パイオニアは分厚い音ですが少し中低域にクセが感じられ、プレクスタは全体にぼやけた感じ(FireWire接続では少しマシ)でしたが、今現在では音もずいぶんこなれてきたのと全体的な音の造形の良さでパイオニアを使っています。(でもせっかくKLIMAX DSに買い換えてCDプレーヤーから脱却できたと思ったら結局DVDドライブの音の違いに悩まなくちゃいけないなんてバカみたいだなぁ)
これを機にツールやフォーマットもEACを使ったFLACフォーマットでの取り込みからiTunesでAppleロスレスに変更しました。Appleロスレスをテストしてみた結果悪くなかったのと、NAS上のiTunesライブラリを家庭内で共有したかったからです。これでメインのオーディオからiPodまで同じ音源データを使って楽しむことができます。無駄になることが多い中での微かな合理性に光が見えた瞬間でした。

早春賦2009年04月16日 10時31分05秒

 寛治は一年ほど前に長年連れ添った妻を亡くしてから長男の家族と同居していたが、やはりうまく気遣いが噛み合わず居づらくなり、蓄えてあった金で老人ホームに入ることにした。
 最初のうちは幾分心細かったものの、自分とよく似た境遇の年寄りたちに囲まれて暮らすうちにだんだん慣れてきた。ここでは明日のことだけを考えて過ごしていればいいし、それ以外のことを考える必要もなかった。
 その中にいつも車椅子に座っている、小さな顔に小さな眼鏡をかけた智子というお婆さんがいた。智子は寛治より五つ下で、いつもその眼鏡の奥から三日月を横にしたような形の目で上目遣いに寛治を見上げていた。
 寛治は智子の車椅子を押して散歩に出かけた。ホームから桜並木を抜けて小高い丘まで、寛治は智子の小さな頭を眺めながらふうふうと言って車いすを押した。乾いた透明な風が吹き渡る丘には一面に菜の花が咲いていた。黄金色に輝く絨毯の上を、寛治と智子はいつまでも歩いては立ち止りを繰り返した。まるで二人に訪れたまばゆい光に戸惑うように。

 ホームでの生活にもすっかり慣れた頃、寛治は体の不調を覚えるようになった。生まれてこのかた医者にかかったことなどない寛治だったが、さすがに寄る年波かと観念してホームから紹介された病院で診察を受けた。寛治は詳しい病状を知らされることなく、長男夫婦が手配した大学病院に入院させられ、毎日辛い治療と戦うことを余儀なくされた。
 半年ほどが経って、小康状態となった寛治は老人ホームに帰りたいと長男に頼んだ。なんとか外出許可をもらい、久しぶりにホームを訪ねてみた。ところが懐かしい顔ぶれの中に智子の姿は見あたらなかった。智子は寛治のいない間に風邪をこじらせ肺炎で亡くなっていたのだ。
 寛治は一人で桜並木を歩き、あの丘にやってきた。そこでは一年前と変わらず菜の花が咲き乱れていて、鮮やかな黄色の炎は立ち尽くす寛治の足下でいつまでも揺らめいていた。

Power Port Premier2009年04月17日 13時00分03秒

出ましたねぇ。今のコンセントが同じPS AudioのPower Portなのでもの凄く気になります。
ちなみに我が家のオーディオ用電源環境は、専用ブレーカ(100V)→東日京三Fケーブル(10m)→コンセント(Power Port)→絶縁トランス(中村製作所NSIT-2000Plus)→各機器へとなっていて、コンセントは壁埋め込みではなく壁からFケーブルを引き出してコンセントボックスを取り付けてあります。PowerPortは相性のいいOrtofonの木製ベースにマウントしてありますが、プレートは付けていません。
コンセントは昔、松下電工、ハッベル、レビトン、オヤイデなど色々試してみましたが、結局現在のPowerPortに落ち着いてもう何年にもなります。骨格のしっかりした音は(普段は気にしませんが)私のオーディオで安心して音楽を楽しむのに欠かせないものです。
Power Port Premier、もちろんコンセントとしては非常に高価ですが、なんたってPremierですし、オーディオ的価値観でみた場合にはタダ同然の値段ですからポチッと注文しちゃいましょうかねぇ。(よいしょっと、あぁ、やっちゃった)
そうそう、最近もう一つ気になる物があるんです。オーグラインのLANケーブルなんですけどね。これDS用にとってもいいんじゃないでしょうか。でもオーディオ的価値観でいえばしれてますけど、LANケーブルですからねぇ、やっぱり高いですよ。まあ余裕ができたら一本くらい買ってみるかもしれません。
とりあえず今はPower Port Premierが届くのを楽しみに待ちたいと思います。ただどこも在庫が無くて納期も未定と品薄のようですから、一体いつ届くのかはわかりません。

ミスト2009年04月20日 20時26分09秒

今更ですがスティーブン・キング+フランク・ダラボンの「ミスト」(2007年)観てみました。思っていたよりは面白かったです。まあ考えてみれば「ショーシャンクの空に」や「グリーンマイル」のコンビですからそれなりのものにはなってるはずですよね。
異次元ポケットからスリップしてきたモンスターたちも怖いのですが、やはり何といっても立ちこめる霧に潜む恐怖によって社会性を剥ぎ取られた人間たちの怖さ、醜さには思わず目を背けたくなります。そこでは信仰ですら暴力と化し無力な人間たちを飲み込んでいってしまいます。
そしてラスト、まさに霧が晴れるように希望を取り戻しつつある中で霧の中の狂気からそこに引き戻されてしまった主人公(と僕たち)の絶望という演出は秀逸でしたね。霧の美しい映像とマーク・アイシャムの音楽も印象に残りました。
でもこの一連のツルリとしたヒューマニズムも悪くはないんですけど、キング作品に限っていえばミック・ギャリスなんかとやっているB級臭さプンプンのやつのほうが好みです。

今更ついでに去年「ツイン・ピークス」のセカンドシーズンがDVD化された頃にもう一度見返したくなって「ツイン・ピークス」全巻を借りてみたり、キング物も最近「ザ・スタンド」や「ランゴリアーズ」がDVD化されたので(観たことのあるものも含めて)一通り借りられるものは少しずつ借りて観たりしています(「ザ・ミスト」もこの流れの中にあります)。
「ツイン・ピークス」は買って手元に置いておきたいなぁ。できれば「ザ・スタンド」や「ランゴリアーズ」も。

もひとつついでにコーエン兄弟の「バーン・アフター・リーディング」もそろそろ公開ですね。GW中にでも観に行く予定です。

ナイスカットミル2009年04月21日 20時39分59秒

もう去年のことですけど、十年来使ってきた電動ミルがそろそろヘタってきたようで、どうも挽き終わりが不均一でコーヒーの味も雑味があって美味しくなくなったような気がしたので、思い切って新しいミルを買うことにしました。
そして検討の結果、これです、カリタのナイスカットミル。粉受けがステンレスカップになっていて使いやすそうなシルバータイプにしました。
その姿はコンパクトながら業務用の香りも感じさせる精悍なスタイリングで、要するに機能美プンプンにウットリです。
ホッパーにコーヒー豆を投入して、背面のスイッチを入れます。低回転モーターが唸り、ホッパーのコーヒー豆を引き込んではガリガリと粉砕していく様はその立ち上る香りとともに僕を機械運転のカタルシスへと誘います。挽き終わりと共に動作音が静かになったところでおもむろにスイッチを切ります。ステンレスカップの中の粉はほぼ均一に粉砕されていて鼻を近づけるとその香りはまさに専門店のそれです。静電気のせいかカップや粉の排出口には粉が結構付着して掃除がちょっと面倒ですが、夏場は少しマシなんでしょうか。
で、コーヒーを淹れてみると、うん、とおっても美味しい。雑味もなく香りが立ちます。
今までの電動ミルに比べると、こちらの方がプロっぽいですけど使い方は全然簡単ですよね。挽き目をダイヤルで選んで豆入れてスイッチ押すだけですから。これまでは挽き目の大きさは挽く時間で調整しなければならなかったので、結構経験と勘が必要でしたもの。
あと不思議なのが、前のミルだと動かすと近くにいた猫が一目散に走り去っていったんですが、ナイスカットミルだと目の前で動かしても驚きもしないんです。動作音としては決して前より小さいわけではないのに。猫がこりゃいい物だと判断して興味を示しているのか、動作音の周波数が気にならない帯域だからなのか、まあ後者のような気がしますけど。
少し高かったけど、これで充実したコーヒーライフが送れるなら全然惜しくない、いい買い物だったと思います。

ツインピークス・ゴールド・ボックス2009年04月22日 18時59分10秒

買っちゃいました。やっぱりこれは一生もんですもんね。
今日帰ったらマンションの宅配ボックスに入っていました。
早速Original VersionとInternational Versionが入っているパイロット版をプレーヤーにセットします。バダラメンティの音楽、製材所、グレートノーザンホテル、ダブルRダイナー、(少し前にレンタル版を見たばかりのはずなのに)懐かしいツインピークスの冷たく湿った空気が体の隅々まで染み込んできます。また全部通して見ちゃいそう。

銭ゲバ2009年04月25日 18時58分28秒

TVの録画ファイルを整理していたら、先月で放送が終了した日テレの「銭ゲバ」最終回が残っていたのでまた観てしまいました。最近ほとんどTVドラマは観ませんけど、たまたま一回目か二回目の放送を観て以来何とはなしに結構観ちゃいました。
一応原作(ジョージ秋山、1970年、少年サンデー)は読んだことがあるんですが、内容はほとんど覚えていませんでした。ただあのインパクトのある画が妙にクリアに蘇ってきて、果たしてどんなドラマになっているのか結構興味はありました。
結局ドラマとして数字はあまり取れなかったようですけど、決して内容は悪くないと思いました。空気感は少し時代を感じさせますけど現代にも通ずる普遍的で十分にインパクトのあるテーマですし、現代だからこそ切実に伝わる部分もあったと思います。
そしてこの最終回は白眉でしたね。風太郎が死を目前にして見る短い夢の中で繰り広げられる、ひょっとしたら生きることになったかもしれないもう一つの光に満ちた人生。金を渇望しながら愛に絶望し死を選んだこの闇に覆われた人生とはあまりにも違うその世界は、しかし風太郎を本当に幸福にしてくれるものだったのでしょうか。それは誰にもわかりません。
今日ファイルは削除しますけど、時々思い出してみたいと思います。