青く四角い夢の中 ― 2006年06月01日 15時40分14秒
雨が降っていた――。すでに七月も終ろうとしていたが、長びいている梅雨のおかげであの鋭角的で透明な初夏の日差しと、深々としたクライン・ブルーの空はもうずっと灰色の雲の向こうに閉ざされたままだった。雨は(本当に呆れるくらいに)飽きることなく降りつづけ、大地は絹のように降りそそぐ愛撫に静かに震えていた。そして人々は眠りから覚めたウサギのような気持ちを濡れそぼった鳩のような不安げな落ち着きで包み込み、途方に暮れながらも押し黙って毎日を過ごしているように見えた。
僕が目を覚ましたときもやはり外は雨だったが、それは枕もとの窓ガラスの向こうに感じられる気配や、その窓ガラスを通して入ってくる鈍い光からも認めることができた。僕は半ば無意識の中でサイド・テーブルに手を延ばして、ステレオのリモコン・スイッチをONにした――『リボルバー』がセットされたままだったらしい――。そして雨の音がかき消されないようにボリュームを調節してそのままベッドの中で微睡んでいた。
そうしていると僕の体はまるで止め処ない雨の中に無造作に捨てられた段ボールの切れ端のように水分を含んで膨張し、やがて白く柔らかな地面の上でゆっくりと溶解していった。僕はすっかり力の無くなった体をくねらせながら、薄れていく意識の中で不思議に穏やかな気持ちで祈った。それは僕の体の細胞を一つ一つ丹念に剥ぎとり、そして遠い――僕には考えもつかないようなところに静かに流し去っていった。
気の遠くなるような時間が経って、僕の体は三分の二くらいがもうすでに溶け出してしまっていたが、僕には自分の完全消滅を見届ける勇気はなかったし、見届ける理由もなかったので、空中に散在して浮遊していた意識のかけらを慌ててかき集め始めた。そして僕が僕として存在していることを確かめ、自分の部屋の自分のベッドの中にいることを確かめると少し安心することができた。――そこではジョン・レノンが僕の無事をささやかに祝ってくれていた。
僕は段ボールの残骸を引きずりながらベッドを這いだし、そこに腰かけてタバコを吸った。タバコの煙は僕の体からようやく抜け出すことができた魂のように、微かな空気の流れに漂いながら身をくねらせ、胸一杯に自由を吸いこんで肥大しながら拡散し、やがて何処へともなく消えていった。
部屋の中では東と南の窓から射し込んだグレーの光が乱反射しながら僕の目の前を落ち着きなく走り回っていた。この部屋の窓は異様に大きくて東と南の壁面はそのほとんどがガラスで覆われていた。やたらとカーテンが必要なので引っ越して来たときには本当にうんざりしたものだ。たとえば天気のいい日に部屋の中でじっとしていると、花屋二軒分の花と一緒に六畳大の棺に納められた死体のような気分になった。
この部屋に越してきたのは一年ほど前で、その前はここから電車で十分くらいしか離れていない所に住んでいた。その前になると少し記憶が曖昧になる。僕は引越しが特別に好きというわけではないのだが、その前から一年から一年半くらいのサイクルで引越しを繰り返していた。どう言えばいいのか良くわからないけれど、一所にあまり長くいるとなんだか僕と僕を取り巻くいろんな状況がだんだん硬直してきて、結局のところ身動きが取れなくなってしまうような気がするからだ。それで僕は引越しをして、また硬直する。その繰り返しだ。
サイド・テーブルの上の時計は十時半を少し回ったところだった。
ふと今日がいったい何月何日で、何曜日だったのかを思いだそうとした―――最近は何かを思いだそうとするたびにバカみたいに時間がかかる―――二十秒くらい考えた―――今日は七月二十八日で、金曜日だった。しかしそうやって思いだしたところで、それは別に何の意味もない‘ただの’金曜日だった。何の予定もなければ何もすることもない。誰かと会う約束もなければ床屋に出かけるつもりもないし、おまけに雨も降っていた。そんなわざわざ思いだす必要もない一日だった。
僕はゆっくりとダイニング・キッチンに歩いていって冷蔵庫のドアを開けると、ミルクのパックを取り出し、テーブルの前に腰かけた。
テーブルの上にはビールの空き缶が二つと、昨日の新聞と、小皿の中に食べ残しのフレンチフライド・ポテトが四本と、小さな陶器の灰皿に七本のタバコの吸殻と、アーモンド・チョコレートと、爪切りと、新刊ビデオのカタログと、ライターのオイル缶と、綿棒の箱と、ティッシュ・ペーパーと、そのティッシュを丸めたものが三個と、小さな英英辞典があった。
フレンチフライド・ポテトはぐったりしていてもうすっかり食物としての訴求力を失っていた。僕はその中から一本つまみあげるとトマト・ケチャップを指でのばしてまんべんなく塗りたくった。全体に塗ってしまうとそれはもうくたびれたフレンチフライド・ポテトではなく、まるで未知の惑星に棲むエキゾチックな蛾の幼虫のように見えた。哀れで挑発的なその幼虫はまだよく見えない目を左右に動かし、うつろに僕を見上げていた。
僕は四分の一程残っていたパックのままのミルクを喉に流しこんだ。白くて冷たいミルクが流れ込むと胃が収縮して機能し始め、そこからリレー回路が働いたみたいにしだいに体の中が目覚めてくるのがわかった。
*
――その時僕は掃除機をかけていて、電話が鳴っているのにしばらく気がつかなかった。慌てて電話に駆け寄り受話器を取り上げると遠い闇の中からしばらくぶりに聴く彼女の声が聞こえてきた。
「久しぶり――。ワタシだけど……」
彼女の声からはかつての華やいだきらめきは感じられず、まるで暗がりに揺らめくロウソクの明かりのような頼りなげな響きだった。
「これから――、じゃなくて、夕方くらいに会えるかな?」
*
ここに引っ越してきた当時、辺りを散策していた時に偶然見つけた駅の向こう側にある喫茶店にたびたび通うようになった。その店は特別美味しいサラダを出すわけでもないし、広いテラスがあるわけでもなかったが、店構えや内装やBGMや照明や客質や、カップとか砂糖壷とか女の子とかの趣味などとはまったく無関係に居心地のいい店とそうでない店というのは確かにあって、ここは僕にとってその居心地の良さをかなりのレベルで充たしてくれるところだった。通ううちにマスターとも顔見知りになり、僕のコーヒーの好みなども覚えてくれるようになっていた。
近くの短大に通っていた彼女はその店にある時期から短期のアルバイトとして働くようになって、当然僕ともよく顔を会わせるようになった。
彼女はどうみてもごく平凡な女子大生にしか見えず、顔立ちも地味な方で身なりも当時の学生としてもどちらかといえば質素な印象だったが、なによりその店で働いている時の彼女の姿はとても魅力的だった。彼女の立ち居振舞いにはなんて言えばいいのかスムーズでアトラクティブで見ている者にある種の〈感動〉を与えるようなところがあって、それは今まで見たこともない種類のダンスを目の前にしているようで、彼女の周りに座っている客が間抜けに見えてしょうがないくらいだった。
そんな彼女といつも呆けたような顔をしてそれを見ていた僕はいつからか店の外でも二人で会うようになっていった。彼女は純粋で前向きで生意気でモラリストで、その肌触りや香りは木綿のように優しく柔らかかった。
僕は足が棒になるくらい買い物に付き合ってあちこち歩き回り、彼女は僕のマンションの屋上に大きな天体望遠鏡を持ち込んでは夜な夜な天体観測に明け暮れていた。一度流星群を観測した時には一晩中付き合わされて風邪をひいてしまった。
彼女は天の邪鬼な僕によく「どうして人並みのことができないの?」と口癖のように言ったが、確かに小さい頃から母親にも同じことをよく言われていたのを思い出した。僕に言わせれば彼女は(多分母親も)過剰にパブリックな思考をするタイプで僕は少しだけ個人的志向が強いだけなのだ。彼女は献血をするし選挙の投票にも出かけるしゴミだってきちんと分別するが僕はやらない、ということだ。
しかしそういった性格が災いしたのか、その頃からまるで少しずつ視野が狭くなっていくように僕はある種の閉塞感というか行き詰まりを感じるようになっていた。徐々に得体の知れない焦燥感や倦怠感にさいなまれるようになり、僕の周りのあらゆることが面白いように悪化の一途をたどっていった。注意力がなくなり仕事も失敗続きで、遅刻や無断欠勤も多くなった。ひいきのプロ野球チームはぱったりと勝てなくなり、床屋は僕の頭をひどくおかしな形に仕上げたりもした。大きな買い物をすると気持ちが高揚するためか少し気分が楽になるのでついつい浪費を重ねたあげく貯金も底をついてしまった。
それは当然彼女との関係にも影響を及ぼすことになった。言い争いをすることも増えてきて、次第に僕は彼女の存在を疎ましく思うようになっていった。もちろん彼女に対する気持ちには変わりがないつもりでいたが、その時の僕には僕の中で彼女の存在を処理することができなくなっていたのだと思う。やがて彼女は冬枯れの葉のようにひっそりと僕から離れ落ちていった。
人は本当に大事なものを失った時、案外そのことに気が付いたりはしないものだ。そんな自分の明日にいったいどれくらいの意味が残っているのかなんてことをわざわざ考えたりはしないのだ。
*
三時間後には僕たちは僕たちが初めて会ったあの店の窓際のテーブルに向かい合って座っていた。二ヶ月ぶりくらいに会う彼女は少し痩せたみたいだったが、前と変わらない透明で柔らかな視線でまっすぐ僕を見ていた。
「誕生日だったよね、今日――」彼女はそう言って小さな包みをバッグから取り出すと僕の前に差し出した。
ちょっと驚いた様子の僕を見て彼女は少し微笑み、「開けてみて」と少し急かすように言った。
それは僕が前から欲しがっていたオーダーメイドの手作り万年筆だった。クリップからペン先までまったく僕の好みどおりに仕上がっていて、実際に見るのは初めてだったがまったく見事な出来栄えだった。
それから僕たちは何を話すこともなくそのまま座っていた。僕は礼を言うのも忘れて何度も万年筆を取り出しては、ボディをさすってみたりキャップをあけて握ってみたり空に字を書いてみたりを繰り返していた。
「――あのね、ちょっとお願いがあるの」
顔を上げると彼女は居住まいの悪そうな少し悪戯っぽい顔で言った。
「ウチのお風呂が壊れちゃったのよ。悪いんだけど今日あなたの家のお風呂貸してくれない?」
思わず僕は声を上げて笑い出しそうになった。なぜならそれは彼女が初めて僕のマンションに来た時に言った口実と同じだったからだ。だが今の彼女が浮かれた口実でそんなことを言っているとも思えないので、これは額面どおり受け取るべきなんだろうと考えた。
「その代わり、今日は私が晩御飯作ってあげるから」
もちろん断るつもりは無かったが、僕はそのタイミングをすっかり失ってしまっていた。
店を出ると僕たちはスーパーに寄って夕食の食材を買い揃えると、ずっと彼女の後を僕が付いていくような格好で歩きながら僕のマンションに向かった。
僕のマンションは鉄筋の三階建てで、各階に二部屋ずつ、全部で六部屋あった。僕の部屋はその三階の南向きの部屋で、間取りは六畳が二部屋と、六畳のダイニング・キッチン、バス、トイレが付いていた。ベランダは無かったが、その代わりに広い屋上があった。屋上には重そうなコンクリートの固まりを履いた物干し台が二つと、エア・コンディショナーの室外機が二台あるだけだった。
僕がここに決めるにあたって特に気に入ったのはその屋上を自由に使っていいということと、何よりその建物自体の外観だった。回りには洒落たレンガ風の外壁の小綺麗なマンションやら、生活臭にむせかえりいまにも腐って崩れ落ちそうなアパートやらがあったが、僕のマンションはそのどれとも違った雰囲気を持っていて、何て言えばいいのか、どこかストイックな印象を見る者に―――少なくとも僕に―――与えた。
建物の回りは細い二本の路地と、二階建ての住宅兼用のサイクル・ショップによってさえぎられ、その路地の交点と建物の東側面で作られた三角形の土地は駐車場になっていた。片方の路地との間は金網のフェンスでその境界が示され、『契約駐車場に付き、無断駐車お断り』という文句とその持ち主の名前と電話番号が大きな字で書かれた六十センチ×八十センチくらいの看板が掛かっていたが、そこに少なくともきちんと契約をしたらしい車が駐車しているのは一度も見たことはなかった。
南側の路地の向こうには幅五メートルくらいの用水路が澱んだ流れをたたえていた。用水路も、そこを流れる水も、それぞれに与えられた役割や運命にはもううんざりだとでも言いたげに緩慢で自棄的だった。さらにそのずっと向こうには国道が斜めに走っていて、夜屋上に上がって見ると地上を走る銀河のように車のライトの軌跡がなだらかにうごめきながら絶えることなく上昇し、下降していた。
彼女が作ってくれた夕食のメニューは豆腐ハンバーグ、イカと大根の煮物、小松菜のおひたし、残った豆腐とじゅんさいで作った味噌汁だった。
僕は動けなくなるくらいお腹いっぱいになるとソファに寝転んでテレビを観た。彼女は食事中にはビールを、洗い物を片付けてからは僕のとっておきだったワインを勝手にあけるとそれを飲みながらベッドに膝を抱えて座り込んでやはりテレビを観ていた。
テレビのニュースによれば、そこには時代の行く末を予感させるようなエポック・メイキングな出来事もなく、すぐに救援活動を開始しなければならないような大地震や大噴火もなく、革命もなく、テロや飛行機事故すらなかった。少なくとも昨日から今日にかけてその四角い世界は総体として平穏であるようだった(もっとも総体として不穏な世界があるとして、いったいそんなものを〈世界〉と呼ぶんだろうか?)。
そんな中で僕の興味を引いたのは、何冊かその小説を読んだことがある作家の訃報と、今夜の深夜映画でヴィスコンティが放映されるということくらいだった。その作家は肺ガンで死に、映画は『家族の肖像』だった。
僕たちはそのまま何もしゃべらずずっとテレビを観ていたが、気が付くとワインのボトルはとっくに空っぽになっていて、そろそろ『家族の肖像』が始まるような時間になっていた。彼女はいつの間にかベッドの上で丸まるように横になり小さな寝息をたてていた。
僕は立ち上がりそのままの彼女の上に毛布をかけると、テレビと部屋の灯りを消しソファに戻ってもう眠ることにした。
――それからどれくらいの時間が経ったのだろう。僕はふと目を覚ましベッドの置いてある窓側に目をやると、いつの間にか雨は上がったらしく月明かりが青く透明な光となって差し込んでいて、僕の部屋はまるで丸ごとプールの底に沈んだようにぼんやりと揺らめいていた。驚いたことにベッドの上の彼女はいつの間にか裸で横たわっていて、その細いがたおやかな体を弓なりに反らせながら脱皮する蛾のように艶かしくうごめいていた。彼女の腕はその体にどこまでも伸びるつるのように絡まり、彼女の体は周りの青に溶け出すように激しく震えだし、その唇からは時折吐息や呻き声も漏れてきていた。
僕は金縛りにあったように身じろぎもせず黙ってその様子を見ていたが、しばらくするとやがて彼女もクライマックスに達したのか、その体を大きくはじけるように反らせると静かに沈み込んでほとんど動かなくなった。部屋の中にはいつの間にか粘性を増してジェル状になった青い液体が充満し始め僕は段々息苦しくなってきていたが、それがやがて僕の体内を侵食し始める頃には徐々に意識も遠くなっていった――。
次に目を覚ました時にはもうすっかり朝になっていて、部屋の様子もいつもと変わらないようだった。僕はソファに横になっていて、ベッドにはもう彼女の姿はなかった。
「何きょろきょろしてるの? 自分の部屋なのに」
振り返ると彼女はもちろん服を着ていて、何事もなかったかのように朝食の用意をしていた。
「これ食べたら私帰るわね。それから……」
彼女は少し息が詰まったように小さく肩をすくめてからこう続けた。
「私もうあなたと会うことはないと思うの。だって……もう意味がないでしょ」
僕は小さく頷き「そうだね……」と言って、少し考えてから「ありがとう」と付け加えた。
「それじゃあ――」
玄関で靴を履き終えた彼女は振り向いてバッグを肩にかけると髪を耳にかけ直しわずかに口の端だけで笑ってそう言うと、ドアの向こうに消えていった。
僕は所在無くまたダイニングの椅子に座りなおした。そして昨日彼女にもらった万年筆とメモ帳を取り出してくるとそれに彼女の名前を書いてみたが、青いインクが少し滲み彼女の名前が不恰好に歪んでしまった。それを見ていると本当の意味で僕は彼女を失ってしまったのだという現実が波のように押し寄せてきて僕をゆっくりと深く揺らめかせた。
しかし僕は彼女に感謝するべきなんだと思う。なぜなら彼女のおかげで昨日までとは違ってなんだか洞窟のような僕の心にも鈍く細い光が差し込んできて、僕の明日もにわかにその意味を持ち始めてきているような気がしたからだ。
確かに人生は消耗なのかもしれないけれど、それは決して不毛ではないのだ――。
僕が目を覚ましたときもやはり外は雨だったが、それは枕もとの窓ガラスの向こうに感じられる気配や、その窓ガラスを通して入ってくる鈍い光からも認めることができた。僕は半ば無意識の中でサイド・テーブルに手を延ばして、ステレオのリモコン・スイッチをONにした――『リボルバー』がセットされたままだったらしい――。そして雨の音がかき消されないようにボリュームを調節してそのままベッドの中で微睡んでいた。
そうしていると僕の体はまるで止め処ない雨の中に無造作に捨てられた段ボールの切れ端のように水分を含んで膨張し、やがて白く柔らかな地面の上でゆっくりと溶解していった。僕はすっかり力の無くなった体をくねらせながら、薄れていく意識の中で不思議に穏やかな気持ちで祈った。それは僕の体の細胞を一つ一つ丹念に剥ぎとり、そして遠い――僕には考えもつかないようなところに静かに流し去っていった。
気の遠くなるような時間が経って、僕の体は三分の二くらいがもうすでに溶け出してしまっていたが、僕には自分の完全消滅を見届ける勇気はなかったし、見届ける理由もなかったので、空中に散在して浮遊していた意識のかけらを慌ててかき集め始めた。そして僕が僕として存在していることを確かめ、自分の部屋の自分のベッドの中にいることを確かめると少し安心することができた。――そこではジョン・レノンが僕の無事をささやかに祝ってくれていた。
僕は段ボールの残骸を引きずりながらベッドを這いだし、そこに腰かけてタバコを吸った。タバコの煙は僕の体からようやく抜け出すことができた魂のように、微かな空気の流れに漂いながら身をくねらせ、胸一杯に自由を吸いこんで肥大しながら拡散し、やがて何処へともなく消えていった。
部屋の中では東と南の窓から射し込んだグレーの光が乱反射しながら僕の目の前を落ち着きなく走り回っていた。この部屋の窓は異様に大きくて東と南の壁面はそのほとんどがガラスで覆われていた。やたらとカーテンが必要なので引っ越して来たときには本当にうんざりしたものだ。たとえば天気のいい日に部屋の中でじっとしていると、花屋二軒分の花と一緒に六畳大の棺に納められた死体のような気分になった。
この部屋に越してきたのは一年ほど前で、その前はここから電車で十分くらいしか離れていない所に住んでいた。その前になると少し記憶が曖昧になる。僕は引越しが特別に好きというわけではないのだが、その前から一年から一年半くらいのサイクルで引越しを繰り返していた。どう言えばいいのか良くわからないけれど、一所にあまり長くいるとなんだか僕と僕を取り巻くいろんな状況がだんだん硬直してきて、結局のところ身動きが取れなくなってしまうような気がするからだ。それで僕は引越しをして、また硬直する。その繰り返しだ。
サイド・テーブルの上の時計は十時半を少し回ったところだった。
ふと今日がいったい何月何日で、何曜日だったのかを思いだそうとした―――最近は何かを思いだそうとするたびにバカみたいに時間がかかる―――二十秒くらい考えた―――今日は七月二十八日で、金曜日だった。しかしそうやって思いだしたところで、それは別に何の意味もない‘ただの’金曜日だった。何の予定もなければ何もすることもない。誰かと会う約束もなければ床屋に出かけるつもりもないし、おまけに雨も降っていた。そんなわざわざ思いだす必要もない一日だった。
僕はゆっくりとダイニング・キッチンに歩いていって冷蔵庫のドアを開けると、ミルクのパックを取り出し、テーブルの前に腰かけた。
テーブルの上にはビールの空き缶が二つと、昨日の新聞と、小皿の中に食べ残しのフレンチフライド・ポテトが四本と、小さな陶器の灰皿に七本のタバコの吸殻と、アーモンド・チョコレートと、爪切りと、新刊ビデオのカタログと、ライターのオイル缶と、綿棒の箱と、ティッシュ・ペーパーと、そのティッシュを丸めたものが三個と、小さな英英辞典があった。
フレンチフライド・ポテトはぐったりしていてもうすっかり食物としての訴求力を失っていた。僕はその中から一本つまみあげるとトマト・ケチャップを指でのばしてまんべんなく塗りたくった。全体に塗ってしまうとそれはもうくたびれたフレンチフライド・ポテトではなく、まるで未知の惑星に棲むエキゾチックな蛾の幼虫のように見えた。哀れで挑発的なその幼虫はまだよく見えない目を左右に動かし、うつろに僕を見上げていた。
僕は四分の一程残っていたパックのままのミルクを喉に流しこんだ。白くて冷たいミルクが流れ込むと胃が収縮して機能し始め、そこからリレー回路が働いたみたいにしだいに体の中が目覚めてくるのがわかった。
*
――その時僕は掃除機をかけていて、電話が鳴っているのにしばらく気がつかなかった。慌てて電話に駆け寄り受話器を取り上げると遠い闇の中からしばらくぶりに聴く彼女の声が聞こえてきた。
「久しぶり――。ワタシだけど……」
彼女の声からはかつての華やいだきらめきは感じられず、まるで暗がりに揺らめくロウソクの明かりのような頼りなげな響きだった。
「これから――、じゃなくて、夕方くらいに会えるかな?」
*
ここに引っ越してきた当時、辺りを散策していた時に偶然見つけた駅の向こう側にある喫茶店にたびたび通うようになった。その店は特別美味しいサラダを出すわけでもないし、広いテラスがあるわけでもなかったが、店構えや内装やBGMや照明や客質や、カップとか砂糖壷とか女の子とかの趣味などとはまったく無関係に居心地のいい店とそうでない店というのは確かにあって、ここは僕にとってその居心地の良さをかなりのレベルで充たしてくれるところだった。通ううちにマスターとも顔見知りになり、僕のコーヒーの好みなども覚えてくれるようになっていた。
近くの短大に通っていた彼女はその店にある時期から短期のアルバイトとして働くようになって、当然僕ともよく顔を会わせるようになった。
彼女はどうみてもごく平凡な女子大生にしか見えず、顔立ちも地味な方で身なりも当時の学生としてもどちらかといえば質素な印象だったが、なによりその店で働いている時の彼女の姿はとても魅力的だった。彼女の立ち居振舞いにはなんて言えばいいのかスムーズでアトラクティブで見ている者にある種の〈感動〉を与えるようなところがあって、それは今まで見たこともない種類のダンスを目の前にしているようで、彼女の周りに座っている客が間抜けに見えてしょうがないくらいだった。
そんな彼女といつも呆けたような顔をしてそれを見ていた僕はいつからか店の外でも二人で会うようになっていった。彼女は純粋で前向きで生意気でモラリストで、その肌触りや香りは木綿のように優しく柔らかかった。
僕は足が棒になるくらい買い物に付き合ってあちこち歩き回り、彼女は僕のマンションの屋上に大きな天体望遠鏡を持ち込んでは夜な夜な天体観測に明け暮れていた。一度流星群を観測した時には一晩中付き合わされて風邪をひいてしまった。
彼女は天の邪鬼な僕によく「どうして人並みのことができないの?」と口癖のように言ったが、確かに小さい頃から母親にも同じことをよく言われていたのを思い出した。僕に言わせれば彼女は(多分母親も)過剰にパブリックな思考をするタイプで僕は少しだけ個人的志向が強いだけなのだ。彼女は献血をするし選挙の投票にも出かけるしゴミだってきちんと分別するが僕はやらない、ということだ。
しかしそういった性格が災いしたのか、その頃からまるで少しずつ視野が狭くなっていくように僕はある種の閉塞感というか行き詰まりを感じるようになっていた。徐々に得体の知れない焦燥感や倦怠感にさいなまれるようになり、僕の周りのあらゆることが面白いように悪化の一途をたどっていった。注意力がなくなり仕事も失敗続きで、遅刻や無断欠勤も多くなった。ひいきのプロ野球チームはぱったりと勝てなくなり、床屋は僕の頭をひどくおかしな形に仕上げたりもした。大きな買い物をすると気持ちが高揚するためか少し気分が楽になるのでついつい浪費を重ねたあげく貯金も底をついてしまった。
それは当然彼女との関係にも影響を及ぼすことになった。言い争いをすることも増えてきて、次第に僕は彼女の存在を疎ましく思うようになっていった。もちろん彼女に対する気持ちには変わりがないつもりでいたが、その時の僕には僕の中で彼女の存在を処理することができなくなっていたのだと思う。やがて彼女は冬枯れの葉のようにひっそりと僕から離れ落ちていった。
人は本当に大事なものを失った時、案外そのことに気が付いたりはしないものだ。そんな自分の明日にいったいどれくらいの意味が残っているのかなんてことをわざわざ考えたりはしないのだ。
*
三時間後には僕たちは僕たちが初めて会ったあの店の窓際のテーブルに向かい合って座っていた。二ヶ月ぶりくらいに会う彼女は少し痩せたみたいだったが、前と変わらない透明で柔らかな視線でまっすぐ僕を見ていた。
「誕生日だったよね、今日――」彼女はそう言って小さな包みをバッグから取り出すと僕の前に差し出した。
ちょっと驚いた様子の僕を見て彼女は少し微笑み、「開けてみて」と少し急かすように言った。
それは僕が前から欲しがっていたオーダーメイドの手作り万年筆だった。クリップからペン先までまったく僕の好みどおりに仕上がっていて、実際に見るのは初めてだったがまったく見事な出来栄えだった。
それから僕たちは何を話すこともなくそのまま座っていた。僕は礼を言うのも忘れて何度も万年筆を取り出しては、ボディをさすってみたりキャップをあけて握ってみたり空に字を書いてみたりを繰り返していた。
「――あのね、ちょっとお願いがあるの」
顔を上げると彼女は居住まいの悪そうな少し悪戯っぽい顔で言った。
「ウチのお風呂が壊れちゃったのよ。悪いんだけど今日あなたの家のお風呂貸してくれない?」
思わず僕は声を上げて笑い出しそうになった。なぜならそれは彼女が初めて僕のマンションに来た時に言った口実と同じだったからだ。だが今の彼女が浮かれた口実でそんなことを言っているとも思えないので、これは額面どおり受け取るべきなんだろうと考えた。
「その代わり、今日は私が晩御飯作ってあげるから」
もちろん断るつもりは無かったが、僕はそのタイミングをすっかり失ってしまっていた。
店を出ると僕たちはスーパーに寄って夕食の食材を買い揃えると、ずっと彼女の後を僕が付いていくような格好で歩きながら僕のマンションに向かった。
僕のマンションは鉄筋の三階建てで、各階に二部屋ずつ、全部で六部屋あった。僕の部屋はその三階の南向きの部屋で、間取りは六畳が二部屋と、六畳のダイニング・キッチン、バス、トイレが付いていた。ベランダは無かったが、その代わりに広い屋上があった。屋上には重そうなコンクリートの固まりを履いた物干し台が二つと、エア・コンディショナーの室外機が二台あるだけだった。
僕がここに決めるにあたって特に気に入ったのはその屋上を自由に使っていいということと、何よりその建物自体の外観だった。回りには洒落たレンガ風の外壁の小綺麗なマンションやら、生活臭にむせかえりいまにも腐って崩れ落ちそうなアパートやらがあったが、僕のマンションはそのどれとも違った雰囲気を持っていて、何て言えばいいのか、どこかストイックな印象を見る者に―――少なくとも僕に―――与えた。
建物の回りは細い二本の路地と、二階建ての住宅兼用のサイクル・ショップによってさえぎられ、その路地の交点と建物の東側面で作られた三角形の土地は駐車場になっていた。片方の路地との間は金網のフェンスでその境界が示され、『契約駐車場に付き、無断駐車お断り』という文句とその持ち主の名前と電話番号が大きな字で書かれた六十センチ×八十センチくらいの看板が掛かっていたが、そこに少なくともきちんと契約をしたらしい車が駐車しているのは一度も見たことはなかった。
南側の路地の向こうには幅五メートルくらいの用水路が澱んだ流れをたたえていた。用水路も、そこを流れる水も、それぞれに与えられた役割や運命にはもううんざりだとでも言いたげに緩慢で自棄的だった。さらにそのずっと向こうには国道が斜めに走っていて、夜屋上に上がって見ると地上を走る銀河のように車のライトの軌跡がなだらかにうごめきながら絶えることなく上昇し、下降していた。
彼女が作ってくれた夕食のメニューは豆腐ハンバーグ、イカと大根の煮物、小松菜のおひたし、残った豆腐とじゅんさいで作った味噌汁だった。
僕は動けなくなるくらいお腹いっぱいになるとソファに寝転んでテレビを観た。彼女は食事中にはビールを、洗い物を片付けてからは僕のとっておきだったワインを勝手にあけるとそれを飲みながらベッドに膝を抱えて座り込んでやはりテレビを観ていた。
テレビのニュースによれば、そこには時代の行く末を予感させるようなエポック・メイキングな出来事もなく、すぐに救援活動を開始しなければならないような大地震や大噴火もなく、革命もなく、テロや飛行機事故すらなかった。少なくとも昨日から今日にかけてその四角い世界は総体として平穏であるようだった(もっとも総体として不穏な世界があるとして、いったいそんなものを〈世界〉と呼ぶんだろうか?)。
そんな中で僕の興味を引いたのは、何冊かその小説を読んだことがある作家の訃報と、今夜の深夜映画でヴィスコンティが放映されるということくらいだった。その作家は肺ガンで死に、映画は『家族の肖像』だった。
僕たちはそのまま何もしゃべらずずっとテレビを観ていたが、気が付くとワインのボトルはとっくに空っぽになっていて、そろそろ『家族の肖像』が始まるような時間になっていた。彼女はいつの間にかベッドの上で丸まるように横になり小さな寝息をたてていた。
僕は立ち上がりそのままの彼女の上に毛布をかけると、テレビと部屋の灯りを消しソファに戻ってもう眠ることにした。
――それからどれくらいの時間が経ったのだろう。僕はふと目を覚ましベッドの置いてある窓側に目をやると、いつの間にか雨は上がったらしく月明かりが青く透明な光となって差し込んでいて、僕の部屋はまるで丸ごとプールの底に沈んだようにぼんやりと揺らめいていた。驚いたことにベッドの上の彼女はいつの間にか裸で横たわっていて、その細いがたおやかな体を弓なりに反らせながら脱皮する蛾のように艶かしくうごめいていた。彼女の腕はその体にどこまでも伸びるつるのように絡まり、彼女の体は周りの青に溶け出すように激しく震えだし、その唇からは時折吐息や呻き声も漏れてきていた。
僕は金縛りにあったように身じろぎもせず黙ってその様子を見ていたが、しばらくするとやがて彼女もクライマックスに達したのか、その体を大きくはじけるように反らせると静かに沈み込んでほとんど動かなくなった。部屋の中にはいつの間にか粘性を増してジェル状になった青い液体が充満し始め僕は段々息苦しくなってきていたが、それがやがて僕の体内を侵食し始める頃には徐々に意識も遠くなっていった――。
次に目を覚ました時にはもうすっかり朝になっていて、部屋の様子もいつもと変わらないようだった。僕はソファに横になっていて、ベッドにはもう彼女の姿はなかった。
「何きょろきょろしてるの? 自分の部屋なのに」
振り返ると彼女はもちろん服を着ていて、何事もなかったかのように朝食の用意をしていた。
「これ食べたら私帰るわね。それから……」
彼女は少し息が詰まったように小さく肩をすくめてからこう続けた。
「私もうあなたと会うことはないと思うの。だって……もう意味がないでしょ」
僕は小さく頷き「そうだね……」と言って、少し考えてから「ありがとう」と付け加えた。
「それじゃあ――」
玄関で靴を履き終えた彼女は振り向いてバッグを肩にかけると髪を耳にかけ直しわずかに口の端だけで笑ってそう言うと、ドアの向こうに消えていった。
僕は所在無くまたダイニングの椅子に座りなおした。そして昨日彼女にもらった万年筆とメモ帳を取り出してくるとそれに彼女の名前を書いてみたが、青いインクが少し滲み彼女の名前が不恰好に歪んでしまった。それを見ていると本当の意味で僕は彼女を失ってしまったのだという現実が波のように押し寄せてきて僕をゆっくりと深く揺らめかせた。
しかし僕は彼女に感謝するべきなんだと思う。なぜなら彼女のおかげで昨日までとは違ってなんだか洞窟のような僕の心にも鈍く細い光が差し込んできて、僕の明日もにわかにその意味を持ち始めてきているような気がしたからだ。
確かに人生は消耗なのかもしれないけれど、それは決して不毛ではないのだ――。
砂利山 -オリジナル- ― 2006年06月01日 16時00分14秒
僕が幼い頃、四歳から八歳までの時期を過ごした田舎の家の側には小さな田んぼや建設資材置き場等があり、近所の子供数人と毎日カエルやオタマジャクシを見つけたり、ザリガニ釣りをしたり、木材が積み上げられた隙間の中に秘密基地を作ったりして遊んでいた。思い返せば何もかもがキラキラと輝いていたその時代の中を、僕は夢中になって走り回っていた。
ある日、一番近所に住んでいる仲の良い子が僕の家に来て、
「知ってるか? 木材置き場の向こうの空き地にでっかい山ができてるぞ」とひどく興奮した様子で言うので、早速一緒に行ってみることにした。
そこには確かに大きな白い山が二つそびえ立っていたが、それは恐らく建設資材の一部だと思われる砂利が積み上げられて出来たものだった。近寄ってみると砂利は大きなもので三、四センチくらいはあっただろうか。そっと拾い上げるとそれはずしりと重く、僕の手のひらはその白く冷たい石で一杯になった。
その砂利の山は、僕を含めた遊び仲間たちの目にひどく魅力的に映ったのだろう。早速翌日には全員が誰に呼ばれるでもなくそのふもとに集まってきた。砂利は子供の手にとって投げるにはちょうどいい形と大きさで、実際放った時の感触は痺れるくらい気持ちがよかった。
みんなはしばらくの間てんでにそこらじゅう砂利を放り投げて遊んでいたが、やがてそれも飽きてしまい足元につまらなそうに叩きつけたり、座り込んで欠伸をしたりしたりするようになった。
やはり投げるからにはどうしても標的が欲しくなる。そこで僕たちは数人ずつ二チームに分かれてそれぞれの山のふもとに陣取り、隠れて見えない敵をめがけて砂利を投げあい始めた。もちろん危険なことこの上ないのだが、だからこそ子供たちの底知れないスリルへの欲求を満たすには充分な遊びだった。
こちらのチームは近所の子を含んだ仲間うちでも特に仲のいいメンバーで、相手チームは駅の反対側に住んでいる子ばかりだった。僕たちは山の後ろにぴったり張り付いて相手の攻撃をかわし、ここぞというときに左右に飛び出しては、同じように山かげから現れた敵に向かって素早く投げつけたり、山の裏側に潜んでいる敵を狙って山なりに高く投げ上げたりして攻撃を続けた。
そうはいっても山と山の間には距離もあったし、そもそも子供の力で投げているので飛んでくる砂利の軌道も簡単に見切ることができ、それほど危なくはないだろうと思っていたが、それでももし、万が一それに当たってしまったらという小さな恐怖感が僕たちの興奮をいやがうえにも増長させ、みんな我を忘れて夢中で砂利を投げ合っていた。
しかしちょうど僕が山の右側から、誰もいない相手側の山の左側に渾身の力で砂利を投げつけた時だった。誰もいないところに到達するはずだったその砂利は、ふいに飛び出してきた子の頭部に命中し、その子はギャッと言ったきりその場に倒れこんでしまった。
子供たちの歓声に代わって、静かな風の音がしばらくの間その砂利山を包んでいた。
みんなが駆け寄ってみると、その子はおでこのあたりから血を流し仰向けに倒れぐったりしていた。相手チームの子がその子の名前を小さな声で呼び、その腕に軽く触れてみたが反応は無かった。
僕はみんなの視線を感じながらも、何をどうしていいのかまったくわからず、体を動かすことも声を発することも出来なかった。そこから一番家の近い子が、
「おれ、家の人呼んでくる――」と言って駆け出していったが、僕はそれを目で追うことすら出来なかった。
――気が付くと僕は病院にいて、恐らく怪我をした子のいるであろう診察室の前に立っていた。
病院にはすでにどこで聞きつけたのか僕の父親と母親が来ていて、父親はよほど慌てたらしく左右で違うサンダルを履いてきていた。両親は僕を連れて怪我をした子の母親のところに行き、ペコリペコリと何度も頭を下げて謝罪をした。父親の手には硬く力が込められ、僕の頭を張り子のトラのようにグラングランと上下に揺さぶった。
その子は僕と同級生の、駅の操車場近くにあるチクワやカマボコを作っている工場の跡取り息子で、傍に寄るといつも生臭い匂いがしていて僕の気を滅入らせた。目の前の母親からもやはり同じ匂いがするのを確認すると、僕は得心がいったように妙に感心してしまった。
彼の怪我は思ったほどではなく、石がおでこをかすめていったような状態で、ひどく腫れ上がって内出血もしていたが、頭蓋骨骨折や脳挫傷といったような心配はないようだった。脳に関しては精密検査の結果を待たなければならないものの、彼の母親、僕の両親ともひとまずホッとして胸を撫で下ろしたようだった。
病室に移った彼はもうすっかり意識を取り戻していたが、みんながドカドカと部屋に入ってくると少し不安げな顔で周りを見回していた。僕はまた張り子のトラになり両親と一緒に彼にお詫びを言い、彼の枕元には僕の父親が買ってきたフルーツの盛り合わせと花が置かれた。
彼はそのまま十日間ほど入院することになった。精密検査の結果も問題なかったようで、怪我が治れば後遺症もなく完治するそうだ。
僕はその間何度か母親に連れられて彼の見舞いに行った。もともと彼のことはその匂い以外特に嫌いなわけではなかったし、彼の怪我がよくなるに連れて生臭さも次第に薄れてきていたので、見舞いに行くたびに話をしたり遊んだりして以前に比べてもずっと親密になっていった。ただ一度彼の両親と偶然鉢合わせしたときには、息が出来ないくらい病室内に件の匂いが立ちこめていて、僕は母親の腕を引くようにして早々に逃げ帰った。
彼が退院する頃には砂利の山もすっかり跡形もなくなくなっていて、そこはまるで遺跡のように意味もなくぽっかりと空いてしまっていた。
僕はもう以前のようにみんなと一緒になって遊んだりすることはなくなっていた。砂利山の件で懲りたこともあるし、実を言うとある夜両親から我家が近いうちに遠方へ引越すことが決まったことも知らされていたからだ。またみんなと一緒に遊んだら楽しいだろうけれど、僕のせいで迷惑をかけた後ろめたさと、やがて来る別れの辛さを思うととてもそんな気分にはなれなかったのだ。
「――引っ越しちゃうのか?」
引越しの準備も進み、一週間後には僕たちがこの町を出て行くことになったある日、僕が砂利をぶつけた彼が心配そうな顔で僕に言った。
「うん、家の都合でね、しょうがないんだ」僕は無理に明るく言うことで彼の不安のようなものを取り除こうとした。
彼は「そうか――」と言い、自分自身に何かを納得させようとしているみたいだったが、その後僕のいるうちに彼の家に遊びに来るように誘ってくれた。僕は早速次の日、学校が終わってから彼と一緒に彼の家に行くことにした。
彼の母親は僕を見ると「あら、しばらくね」といって優しく迎えてくれ、おやつにカマボコではなくシュークリームを出してくれた。
そのあと彼は工場の中を案内してくれ、ずらっと並んで包丁を持ったおばさんが魚を恐ろしく速いスピードでさばいていたり、大量の真っ白なすり身が馬鹿でかい練り機でぐるぐる回っていたり、何本もの串に巻かれたチクワがくるくる回って焼けていく様子に僕は度肝を抜かれた。チクワやカマボコがこんなにも大掛かりにシステマティックに作られていくなんて、今までまったく想像できなかったからだ。その後焼きたてのチクワを一本もらって食べたが、その綿雲のようなふんわりとして香ばしい食感は堪らない美味しさだった。
彼の家の工場の隣には製材所があって、彼に案内されるままについて行くと、加工された製材が積み上げられた中におがくずが大量にたまっているところがあり、彼がそっとそこを掘り返すと中からカブトムシの幼虫がいくつも現れた。
「カブトムシはさ、いつも取りに行ったりしないでこの幼虫を育ててるんだよ」
彼はそう言うとその幼虫を一匹つまみ上げ、手のひらの中でコロコロ転がしてみせた。ぷっくりとふくらんで丸まったその幼虫は、まるでおがくずから生まれたダイヤモンドのようだった。
僕はチクワやカマボコを抱えきれないぐらい持たされた上に、カブトムシの幼虫がおがくずに埋まった虫かごを肩から下げて、フラフラになりながら彼の家を後にした。気が付いてみると、僕は彼の体や工場の生臭い匂いがまったく気にならなくなっていて自分で少し驚いた。
僕は引越しをして、その夏二匹のオスと一匹のメスのカブトムシを羽化させた。
僕は今では自分の子供と一緒にカブトムシを採りに行ったりするような歳になったが、今でも砂利を踏みつける音を耳にすると、気持ちの片隅でカッと小さな灯がともるような気がするのだ。
ある日、一番近所に住んでいる仲の良い子が僕の家に来て、
「知ってるか? 木材置き場の向こうの空き地にでっかい山ができてるぞ」とひどく興奮した様子で言うので、早速一緒に行ってみることにした。
そこには確かに大きな白い山が二つそびえ立っていたが、それは恐らく建設資材の一部だと思われる砂利が積み上げられて出来たものだった。近寄ってみると砂利は大きなもので三、四センチくらいはあっただろうか。そっと拾い上げるとそれはずしりと重く、僕の手のひらはその白く冷たい石で一杯になった。
その砂利の山は、僕を含めた遊び仲間たちの目にひどく魅力的に映ったのだろう。早速翌日には全員が誰に呼ばれるでもなくそのふもとに集まってきた。砂利は子供の手にとって投げるにはちょうどいい形と大きさで、実際放った時の感触は痺れるくらい気持ちがよかった。
みんなはしばらくの間てんでにそこらじゅう砂利を放り投げて遊んでいたが、やがてそれも飽きてしまい足元につまらなそうに叩きつけたり、座り込んで欠伸をしたりしたりするようになった。
やはり投げるからにはどうしても標的が欲しくなる。そこで僕たちは数人ずつ二チームに分かれてそれぞれの山のふもとに陣取り、隠れて見えない敵をめがけて砂利を投げあい始めた。もちろん危険なことこの上ないのだが、だからこそ子供たちの底知れないスリルへの欲求を満たすには充分な遊びだった。
こちらのチームは近所の子を含んだ仲間うちでも特に仲のいいメンバーで、相手チームは駅の反対側に住んでいる子ばかりだった。僕たちは山の後ろにぴったり張り付いて相手の攻撃をかわし、ここぞというときに左右に飛び出しては、同じように山かげから現れた敵に向かって素早く投げつけたり、山の裏側に潜んでいる敵を狙って山なりに高く投げ上げたりして攻撃を続けた。
そうはいっても山と山の間には距離もあったし、そもそも子供の力で投げているので飛んでくる砂利の軌道も簡単に見切ることができ、それほど危なくはないだろうと思っていたが、それでももし、万が一それに当たってしまったらという小さな恐怖感が僕たちの興奮をいやがうえにも増長させ、みんな我を忘れて夢中で砂利を投げ合っていた。
しかしちょうど僕が山の右側から、誰もいない相手側の山の左側に渾身の力で砂利を投げつけた時だった。誰もいないところに到達するはずだったその砂利は、ふいに飛び出してきた子の頭部に命中し、その子はギャッと言ったきりその場に倒れこんでしまった。
子供たちの歓声に代わって、静かな風の音がしばらくの間その砂利山を包んでいた。
みんなが駆け寄ってみると、その子はおでこのあたりから血を流し仰向けに倒れぐったりしていた。相手チームの子がその子の名前を小さな声で呼び、その腕に軽く触れてみたが反応は無かった。
僕はみんなの視線を感じながらも、何をどうしていいのかまったくわからず、体を動かすことも声を発することも出来なかった。そこから一番家の近い子が、
「おれ、家の人呼んでくる――」と言って駆け出していったが、僕はそれを目で追うことすら出来なかった。
――気が付くと僕は病院にいて、恐らく怪我をした子のいるであろう診察室の前に立っていた。
病院にはすでにどこで聞きつけたのか僕の父親と母親が来ていて、父親はよほど慌てたらしく左右で違うサンダルを履いてきていた。両親は僕を連れて怪我をした子の母親のところに行き、ペコリペコリと何度も頭を下げて謝罪をした。父親の手には硬く力が込められ、僕の頭を張り子のトラのようにグラングランと上下に揺さぶった。
その子は僕と同級生の、駅の操車場近くにあるチクワやカマボコを作っている工場の跡取り息子で、傍に寄るといつも生臭い匂いがしていて僕の気を滅入らせた。目の前の母親からもやはり同じ匂いがするのを確認すると、僕は得心がいったように妙に感心してしまった。
彼の怪我は思ったほどではなく、石がおでこをかすめていったような状態で、ひどく腫れ上がって内出血もしていたが、頭蓋骨骨折や脳挫傷といったような心配はないようだった。脳に関しては精密検査の結果を待たなければならないものの、彼の母親、僕の両親ともひとまずホッとして胸を撫で下ろしたようだった。
病室に移った彼はもうすっかり意識を取り戻していたが、みんながドカドカと部屋に入ってくると少し不安げな顔で周りを見回していた。僕はまた張り子のトラになり両親と一緒に彼にお詫びを言い、彼の枕元には僕の父親が買ってきたフルーツの盛り合わせと花が置かれた。
彼はそのまま十日間ほど入院することになった。精密検査の結果も問題なかったようで、怪我が治れば後遺症もなく完治するそうだ。
僕はその間何度か母親に連れられて彼の見舞いに行った。もともと彼のことはその匂い以外特に嫌いなわけではなかったし、彼の怪我がよくなるに連れて生臭さも次第に薄れてきていたので、見舞いに行くたびに話をしたり遊んだりして以前に比べてもずっと親密になっていった。ただ一度彼の両親と偶然鉢合わせしたときには、息が出来ないくらい病室内に件の匂いが立ちこめていて、僕は母親の腕を引くようにして早々に逃げ帰った。
彼が退院する頃には砂利の山もすっかり跡形もなくなくなっていて、そこはまるで遺跡のように意味もなくぽっかりと空いてしまっていた。
僕はもう以前のようにみんなと一緒になって遊んだりすることはなくなっていた。砂利山の件で懲りたこともあるし、実を言うとある夜両親から我家が近いうちに遠方へ引越すことが決まったことも知らされていたからだ。またみんなと一緒に遊んだら楽しいだろうけれど、僕のせいで迷惑をかけた後ろめたさと、やがて来る別れの辛さを思うととてもそんな気分にはなれなかったのだ。
「――引っ越しちゃうのか?」
引越しの準備も進み、一週間後には僕たちがこの町を出て行くことになったある日、僕が砂利をぶつけた彼が心配そうな顔で僕に言った。
「うん、家の都合でね、しょうがないんだ」僕は無理に明るく言うことで彼の不安のようなものを取り除こうとした。
彼は「そうか――」と言い、自分自身に何かを納得させようとしているみたいだったが、その後僕のいるうちに彼の家に遊びに来るように誘ってくれた。僕は早速次の日、学校が終わってから彼と一緒に彼の家に行くことにした。
彼の母親は僕を見ると「あら、しばらくね」といって優しく迎えてくれ、おやつにカマボコではなくシュークリームを出してくれた。
そのあと彼は工場の中を案内してくれ、ずらっと並んで包丁を持ったおばさんが魚を恐ろしく速いスピードでさばいていたり、大量の真っ白なすり身が馬鹿でかい練り機でぐるぐる回っていたり、何本もの串に巻かれたチクワがくるくる回って焼けていく様子に僕は度肝を抜かれた。チクワやカマボコがこんなにも大掛かりにシステマティックに作られていくなんて、今までまったく想像できなかったからだ。その後焼きたてのチクワを一本もらって食べたが、その綿雲のようなふんわりとして香ばしい食感は堪らない美味しさだった。
彼の家の工場の隣には製材所があって、彼に案内されるままについて行くと、加工された製材が積み上げられた中におがくずが大量にたまっているところがあり、彼がそっとそこを掘り返すと中からカブトムシの幼虫がいくつも現れた。
「カブトムシはさ、いつも取りに行ったりしないでこの幼虫を育ててるんだよ」
彼はそう言うとその幼虫を一匹つまみ上げ、手のひらの中でコロコロ転がしてみせた。ぷっくりとふくらんで丸まったその幼虫は、まるでおがくずから生まれたダイヤモンドのようだった。
僕はチクワやカマボコを抱えきれないぐらい持たされた上に、カブトムシの幼虫がおがくずに埋まった虫かごを肩から下げて、フラフラになりながら彼の家を後にした。気が付いてみると、僕は彼の体や工場の生臭い匂いがまったく気にならなくなっていて自分で少し驚いた。
僕は引越しをして、その夏二匹のオスと一匹のメスのカブトムシを羽化させた。
僕は今では自分の子供と一緒にカブトムシを採りに行ったりするような歳になったが、今でも砂利を踏みつける音を耳にすると、気持ちの片隅でカッと小さな灯がともるような気がするのだ。
郷愁・住居篇 ― 2006年06月01日 16時02分00秒
都会でのマンション暮らしを長く続けていると、ときどき田舎の古い一軒家に想いをはせることがある。
それはもちろん実家のある私の田舎でのことなのだが、思い出すのは決して私の実家だけではなく、例えばさらに山あいにある祖父母の旧家だったり、小学生の頃仲の良かった友達の家であったりとさまざまである。そしてそれらに共通して私がイメージするのは、家の中の薄暗くひんやりとした感じや、あらゆる生活臭が混然となって家全体に染み付いたその匂いといったようなものなのだ。そこではまるで玄関や雨戸の隙間から漏れ出しているかのように時が平坦にゆっくりと過ぎていき、畳やコタツ布団に染み込んだ生活の粒子はそっと私を包み込み癒してくれている。
実を言うと若い頃は、そういったじっとしていると絡めとられて身動きができなくなってしまいそうな時間や空間の佇まいを忌み嫌い、友達の家に遊びに行ってもその家の匂いに気分が悪くなったりしたものだが、田舎を離れて何十年も経った今、振り返ると単なる懐かしさだけではない、胸をかきむしりたくなるような思いにかられることがある。歳をとったといえばそれで片付けられることなのかもしれないが、確かに折り返しというか坂を下り始めてから見えてくる景色というのもあるのだろう。
私が幼稚園に入るまで暮らしていた祖父母の家は、二人とも他界してしまった現在では荒れ放題で朽ち果てるままになっているのだろうが、私の心の中ではその家はいつまでも立派な茅葺きの屋根をのせ、小高い丘から誇らしげに眼下を見下ろしている。玄関から土間を軽やかに縫って爽やかな風が吹き抜けるのを感じ、つややかな柱ややわらかい畳に包まれて祖父母や両親、兄弟たちがそろって湯気の立つ囲炉裏を囲みながら笑い声をあげている様子もありありと浮かんでくるのだ。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2005/12/12/174433
それはもちろん実家のある私の田舎でのことなのだが、思い出すのは決して私の実家だけではなく、例えばさらに山あいにある祖父母の旧家だったり、小学生の頃仲の良かった友達の家であったりとさまざまである。そしてそれらに共通して私がイメージするのは、家の中の薄暗くひんやりとした感じや、あらゆる生活臭が混然となって家全体に染み付いたその匂いといったようなものなのだ。そこではまるで玄関や雨戸の隙間から漏れ出しているかのように時が平坦にゆっくりと過ぎていき、畳やコタツ布団に染み込んだ生活の粒子はそっと私を包み込み癒してくれている。
実を言うと若い頃は、そういったじっとしていると絡めとられて身動きができなくなってしまいそうな時間や空間の佇まいを忌み嫌い、友達の家に遊びに行ってもその家の匂いに気分が悪くなったりしたものだが、田舎を離れて何十年も経った今、振り返ると単なる懐かしさだけではない、胸をかきむしりたくなるような思いにかられることがある。歳をとったといえばそれで片付けられることなのかもしれないが、確かに折り返しというか坂を下り始めてから見えてくる景色というのもあるのだろう。
私が幼稚園に入るまで暮らしていた祖父母の家は、二人とも他界してしまった現在では荒れ放題で朽ち果てるままになっているのだろうが、私の心の中ではその家はいつまでも立派な茅葺きの屋根をのせ、小高い丘から誇らしげに眼下を見下ろしている。玄関から土間を軽やかに縫って爽やかな風が吹き抜けるのを感じ、つややかな柱ややわらかい畳に包まれて祖父母や両親、兄弟たちがそろって湯気の立つ囲炉裏を囲みながら笑い声をあげている様子もありありと浮かんでくるのだ。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2005/12/12/174433
眠りたい ― 2006年06月01日 16時26分27秒
彼女は長身でスレンダー、そしていわゆる美人だが、ひとつだけとても変わったところがある。
眠り病の一種なのだろうか、ごく短い周期で睡眠と覚醒を延々と繰り返すのだ。電車に乗ると立っていても周囲の乗客の不安げな視線を浴びながらガクン、ガクンと体を揺すり続けるし、食事をすればそこらじゅうベチャベチャになって恐ろしく時間がかかってしまう。当然実用的なセックスなんてできるわけもない。
「でも別に私本当に寝てるわけじゃないのよ。こことよく似たもうひとつの世界との間で意識がスイッチしてるだけなの。こっちで寝てる瞬間向こうでは起きてるというわけ。向こうの世界にも郵便ポストはあるし、電車だって走ってるわ。もちろんあなたもいて同じように迷惑そうな顔で私を見てるわよ。ただあっちの方が少し時間が先に流れているのと、いろんなものがもっとくっきり見えるってことかしら。こっちはまるでくすんだ鏡の中にいるようで、その中では向こうの世界を反すうしてるみたいに同じことが起きるのよ――」
――ある日突然彼女は寝るのを止めて体をピタリと止めた。そして目を大きく見開いてまばたきもせず僕にこう言ったのだ。
「私もう眠れない生活に疲れたの。ぐっすり眠りたいのよ。だからさっきマンションの屋上から飛び降りてコンクリートの地面でぺしゃんこになったところ。これでもう白日夢のようなこの世界からもお別れできるわね」
うまく理解できたのかどうかよくわからないが、やがて彼女の存在は消滅し、二度と会うこともなくなるということなんだろう。僕は寂しいのと同時に何故かホッとしてまるで積年の罪を許されたかのような開放感を感じていた。彼女には気の毒だがこんなややこしい状況からもうすぐ解放されるのだ。
「――そうそう、そういえば飛び降りる時にあなたが止めようとしたんでしょうけど、邪魔をするもんだから一緒に落っこっちゃったわよ」
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/01/10/205901
眠り病の一種なのだろうか、ごく短い周期で睡眠と覚醒を延々と繰り返すのだ。電車に乗ると立っていても周囲の乗客の不安げな視線を浴びながらガクン、ガクンと体を揺すり続けるし、食事をすればそこらじゅうベチャベチャになって恐ろしく時間がかかってしまう。当然実用的なセックスなんてできるわけもない。
「でも別に私本当に寝てるわけじゃないのよ。こことよく似たもうひとつの世界との間で意識がスイッチしてるだけなの。こっちで寝てる瞬間向こうでは起きてるというわけ。向こうの世界にも郵便ポストはあるし、電車だって走ってるわ。もちろんあなたもいて同じように迷惑そうな顔で私を見てるわよ。ただあっちの方が少し時間が先に流れているのと、いろんなものがもっとくっきり見えるってことかしら。こっちはまるでくすんだ鏡の中にいるようで、その中では向こうの世界を反すうしてるみたいに同じことが起きるのよ――」
――ある日突然彼女は寝るのを止めて体をピタリと止めた。そして目を大きく見開いてまばたきもせず僕にこう言ったのだ。
「私もう眠れない生活に疲れたの。ぐっすり眠りたいのよ。だからさっきマンションの屋上から飛び降りてコンクリートの地面でぺしゃんこになったところ。これでもう白日夢のようなこの世界からもお別れできるわね」
うまく理解できたのかどうかよくわからないが、やがて彼女の存在は消滅し、二度と会うこともなくなるということなんだろう。僕は寂しいのと同時に何故かホッとしてまるで積年の罪を許されたかのような開放感を感じていた。彼女には気の毒だがこんなややこしい状況からもうすぐ解放されるのだ。
「――そうそう、そういえば飛び降りる時にあなたが止めようとしたんでしょうけど、邪魔をするもんだから一緒に落っこっちゃったわよ」
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/01/10/205901
世界の終わり ― 2006年06月01日 16時27分40秒
そこではもう何年も雪が降り続き、あらゆるものをゆっくりと飲み込んでいった。生き物はあらかたが死に絶えてしまい、かつての巨大なエメラルドを沈めたような湖は今では所在さえ失われ、威容を誇った山々もわずかに鋭い頂あたりを消え入りそうな稜線でなぞるだけだった。灰色の粉塵で埋め尽くされた空からは、ナイフのかけらのような雪が途切れることなく降り注いでいた。
山のふもとでかすかに動く影があった。白い毛に覆われたウサギともリスともつかぬ小さな動物で、ぎょろりとした丸く大きな目と発達した前肢には鋭い爪を持っていた。しばらくきょろきょろと辺りを伺っていたが、やがて決心したように駆け出そうとして身構えた。
その時、ヒュッと乾いた音がして一本の矢が動物の脇腹から頭にかけて一瞬にして貫いた。声を上げることもなくもんどりうって倒れた体からは艶やかな氷の矢じりがのぞき、白く柔らかな地面には赤い命が染み出していった。
矢の飛んできた先からやはり牛とも馬ともつかぬ毛の長い動物が、頭に生えた大きな三本の角を揺らしながらゆっくり姿を現すと、背中には左手に弓を持った少年を乗せていた。少年の髪は雪で染め上げたように真っ白で、瞳は凍えた血のように深く赤い色だった。少年は獲物の足を掴み上げるとぞんざいに三本の角に引っ掛けた。
風が少し強くなってきて、雪も気ぜわしく彼らの周りを取り囲み始めた。少年は物憂げに目を細めながら斜めに空を見上げた。
徐々に力を失っている光のせいで降る雪はますます輝きを増していて、空と陸とが溶け合うのを加速させていた。地平のはるか向こうにはわずかに残った海が暗く深い翳りを湛えながら、白い闇に覆い尽くされるのを静かに待っていた。
そこではもう何年も雪が降り続き、あらゆるものをゆっくりと飲み込んでいった――。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/01/30/231501
山のふもとでかすかに動く影があった。白い毛に覆われたウサギともリスともつかぬ小さな動物で、ぎょろりとした丸く大きな目と発達した前肢には鋭い爪を持っていた。しばらくきょろきょろと辺りを伺っていたが、やがて決心したように駆け出そうとして身構えた。
その時、ヒュッと乾いた音がして一本の矢が動物の脇腹から頭にかけて一瞬にして貫いた。声を上げることもなくもんどりうって倒れた体からは艶やかな氷の矢じりがのぞき、白く柔らかな地面には赤い命が染み出していった。
矢の飛んできた先からやはり牛とも馬ともつかぬ毛の長い動物が、頭に生えた大きな三本の角を揺らしながらゆっくり姿を現すと、背中には左手に弓を持った少年を乗せていた。少年の髪は雪で染め上げたように真っ白で、瞳は凍えた血のように深く赤い色だった。少年は獲物の足を掴み上げるとぞんざいに三本の角に引っ掛けた。
風が少し強くなってきて、雪も気ぜわしく彼らの周りを取り囲み始めた。少年は物憂げに目を細めながら斜めに空を見上げた。
徐々に力を失っている光のせいで降る雪はますます輝きを増していて、空と陸とが溶け合うのを加速させていた。地平のはるか向こうにはわずかに残った海が暗く深い翳りを湛えながら、白い闇に覆い尽くされるのを静かに待っていた。
そこではもう何年も雪が降り続き、あらゆるものをゆっくりと飲み込んでいった――。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/01/30/231501
ダンス男 ― 2006年06月01日 16時28分41秒
私は電車に揺られながら、眼鏡越しに汚れた窓の外の景色に目を泳がせていた。生活は特別苦しいわけではないが、子供もおらず夫に顧みられることもない、空っぽの心と体を持て余す毎日だった。ブランド品を買い揃え、女友達と高級レストランに通ったり夜遅くまで飲み歩いたりするのがせめてもの慰めで、私は夫に気兼ねなく使えるお金を得るためパートタイムで働きに出ていた。
電車が地下に滑り込んだ時、私の腰にそっと誰かの手が回るのを感じた。
「――踊りませんか?」
耳元で囁く声に慌てて振り向くと、日に焼けた笑顔に白い歯を覗かせて燕尾服を着た男が立っていた。
返事も待たずに男はそのまま私の手を取ると、混み合った電車の中を軽やかに滑り出した。車内にはモーゼの仕業としか思えない空間がひらけ、車内放送ではワルツが流れていた。
踊ったことなどないはずの私だったが、男のリードに身を任せながら蝶のような優美なステップで、スカートを翻しふわりと漂うように電車の中を踊り抜けた。乗客の喝采を浴びるうちに、私は次第に高揚し身悶え、歓喜に打ち震えて、味わったことのない充足感に恍惚となった。
私は何かをヒールの踵で踏みつけた拍子によろめいた。目の前で労務者風の男が私に何事か怒鳴っていたが、男の匂いはかぐわしく、思い切り吸い込むと体の奥がじんと痺れた。
気がつくと私の右手はシート脇のポールをしっかりと握りしめ、左手は自分のバッグを形が崩れるほど抱いていた。いつの間にか電車の中も普段と変わらない様子で、ひび割れた声が私が降りる駅に電車が近づいたことを知らせていた。
大勢の乗客と一緒にホームに吐き出されると、私はしばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと眼鏡を外すと小さくはにかみ、定期入れをまさぐりながら改札に向かって歩きだした。
私は私の中にぽっかりと空いている暗い穴と、それを埋め合わせる秘密を知ってしまったのだ。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/02/20/260987
電車が地下に滑り込んだ時、私の腰にそっと誰かの手が回るのを感じた。
「――踊りませんか?」
耳元で囁く声に慌てて振り向くと、日に焼けた笑顔に白い歯を覗かせて燕尾服を着た男が立っていた。
返事も待たずに男はそのまま私の手を取ると、混み合った電車の中を軽やかに滑り出した。車内にはモーゼの仕業としか思えない空間がひらけ、車内放送ではワルツが流れていた。
踊ったことなどないはずの私だったが、男のリードに身を任せながら蝶のような優美なステップで、スカートを翻しふわりと漂うように電車の中を踊り抜けた。乗客の喝采を浴びるうちに、私は次第に高揚し身悶え、歓喜に打ち震えて、味わったことのない充足感に恍惚となった。
私は何かをヒールの踵で踏みつけた拍子によろめいた。目の前で労務者風の男が私に何事か怒鳴っていたが、男の匂いはかぐわしく、思い切り吸い込むと体の奥がじんと痺れた。
気がつくと私の右手はシート脇のポールをしっかりと握りしめ、左手は自分のバッグを形が崩れるほど抱いていた。いつの間にか電車の中も普段と変わらない様子で、ひび割れた声が私が降りる駅に電車が近づいたことを知らせていた。
大勢の乗客と一緒にホームに吐き出されると、私はしばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと眼鏡を外すと小さくはにかみ、定期入れをまさぐりながら改札に向かって歩きだした。
私は私の中にぽっかりと空いている暗い穴と、それを埋め合わせる秘密を知ってしまったのだ。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/02/20/260987
猫とアップダイク ― 2006年06月01日 16時29分26秒
朝のダイニングテーブルには不吉な緑色で印刷された薄い紙が広げて置かれ、前には最近眼鏡もかけなくなって少し華やいだ様子の妻が座っていた。
私が片側だけ空いている欄に署名して判を押すと、彼女は紙を取り上げ吟味するように見てから、折りたたんでバッグにしまい込んだ。そして「じゃ、私、出しておくわね」と言うと唇の端だけで小さく微笑み、スッと立ち上がった。
「荷物はまた今度取りに来るから。……風邪、大事にしてね」玄関から声だけが響いて、ドアがバタンと閉まる音がした。
彼女はもう昔のような笑顔で笑うことはなかったし、私も諦めることを覚えるようになっていた。これも必然の終幕なのだろうが、彼女にとって幸福な卒業となることを祈るだけだ。
ひどい頭痛がしていたが、昼までベッドで休んでから簡単な昼食をとって薬を飲むと、少し気分も良くなった。私は枕に体を持たせかけると、読みかけのアップダイクを開いた。
二匹の猫たちが次々とベッドに上がってきて、私の足下にまとわりついた。彼らはお互いの顔を舐めあっていたかと思うと、生まれたての恋人たちのように抱き合いながらまどろみ、倒れた兵士のように折り重なって眠った。幼くして睾丸と卵巣を摘出され、生後のほとんどをこの家の中だけで過ごしている彼らは、いったいどれほどの人生の滋味とでもいうべきものを享受できているのだろうか、とふと考えた。
窓の外には冷たい風と暖かな日差しにゆらゆらと洗濯物が踊り、その向こうには沈んでいく船から見上げるような美しい青空が広がっていた。透明で濃密な時間が部屋の中を満たし、私はアップダイクを読み、猫たちは静かに眠り続けた。
私の手から本がパサリと音を立てて滑り落ちると、メスは慌てて廊下に飛び出していき、オスは布団の中に潜り込んで私に体をぴったりと寄せて丸くなった。私はほのかな猫の体温を感じながら、そのまま深い闇の底に沈んでいった。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/03/20/296143
私が片側だけ空いている欄に署名して判を押すと、彼女は紙を取り上げ吟味するように見てから、折りたたんでバッグにしまい込んだ。そして「じゃ、私、出しておくわね」と言うと唇の端だけで小さく微笑み、スッと立ち上がった。
「荷物はまた今度取りに来るから。……風邪、大事にしてね」玄関から声だけが響いて、ドアがバタンと閉まる音がした。
彼女はもう昔のような笑顔で笑うことはなかったし、私も諦めることを覚えるようになっていた。これも必然の終幕なのだろうが、彼女にとって幸福な卒業となることを祈るだけだ。
ひどい頭痛がしていたが、昼までベッドで休んでから簡単な昼食をとって薬を飲むと、少し気分も良くなった。私は枕に体を持たせかけると、読みかけのアップダイクを開いた。
二匹の猫たちが次々とベッドに上がってきて、私の足下にまとわりついた。彼らはお互いの顔を舐めあっていたかと思うと、生まれたての恋人たちのように抱き合いながらまどろみ、倒れた兵士のように折り重なって眠った。幼くして睾丸と卵巣を摘出され、生後のほとんどをこの家の中だけで過ごしている彼らは、いったいどれほどの人生の滋味とでもいうべきものを享受できているのだろうか、とふと考えた。
窓の外には冷たい風と暖かな日差しにゆらゆらと洗濯物が踊り、その向こうには沈んでいく船から見上げるような美しい青空が広がっていた。透明で濃密な時間が部屋の中を満たし、私はアップダイクを読み、猫たちは静かに眠り続けた。
私の手から本がパサリと音を立てて滑り落ちると、メスは慌てて廊下に飛び出していき、オスは布団の中に潜り込んで私に体をぴったりと寄せて丸くなった。私はほのかな猫の体温を感じながら、そのまま深い闇の底に沈んでいった。
http://bunshoujuku.asablo.jp/blog/2006/03/20/296143
神々のダンス ― 2006年06月01日 16時31分42秒
とうに日は落ちてもう夜も九時を回った頃だろうか。物見台の鐘がカーン、カーンとゆっくりと何度も打ち鳴らされると、三々五々彼方此方から村人たちが集まってくる。濃紺の空には抜けるほど白い月が浮かび、熱く湿った柔らかい地面をぼんやりと照らしている。村の中心には村人が心寄せる寺があり、その前には八十メートル四方程の広場があった。
底なしの井戸に巨大な鈴を投げ入れたような音色の金属製の楽器が奏でる音楽に乗って、極彩色の衣装を纏った女たちが指先にまで神経を漲らせゆっくりと体をくねらせながら踊っている。その傍らでは僧侶たちが並んで座り、粛粛と読経を続けている。布を羽織り紅白の綱で引かれた牛を先頭に、白く大きな頭巾達が何ごとか呟きながらぞろぞろと巡り歩いている。裸の男たちは目を見開き体を引きつらせ、太鼓の皮の震えに弾け飛ぶように踊っている。急ごしらえの祭壇には生贄が捧げられ、老人達が嵐に舞う稲穂のように祈りを扇いでいる。人形使いは倒木の陰に身を潜め、何体もの人形を操りながら神と悪魔の戦いを演じている。観衆は皆どこかに抜け出してしまった己の魂に焦がれるように、虚ろで燃えるような目をして見入っていた。
それらはあたかも曼荼羅のようでもあり地獄絵のようでもあったが、こうして村人たちはこの世の宇宙から天界と魔界を行き来し、未来や過去と交信する。神と一体化し、自分たちの居場所を確認して、魂を浄化させ、安息を得る。彼らは今いるこの世界が知恵の輪のようにねじれながらあらゆる世界と繋がっていることを知っているのだ。
――松明の炎に揺らめく熱、蠢く指先、生贄から滴る血、頭巾から覗く充血した目、歪む老婆の口、牙を剥く悪魔、もたつく牛の蹄、朗々と響く読経の声、零れ落ちる涙、闇に染み込む久遠の音色、黒く切り抜かれた寺の影、青く霞んだ月……そしてそれは夜半過ぎまで途絶えることなく続くのだった。
http://mayu-kids.asablo.jp/blog/2006/04/16/329418
底なしの井戸に巨大な鈴を投げ入れたような音色の金属製の楽器が奏でる音楽に乗って、極彩色の衣装を纏った女たちが指先にまで神経を漲らせゆっくりと体をくねらせながら踊っている。その傍らでは僧侶たちが並んで座り、粛粛と読経を続けている。布を羽織り紅白の綱で引かれた牛を先頭に、白く大きな頭巾達が何ごとか呟きながらぞろぞろと巡り歩いている。裸の男たちは目を見開き体を引きつらせ、太鼓の皮の震えに弾け飛ぶように踊っている。急ごしらえの祭壇には生贄が捧げられ、老人達が嵐に舞う稲穂のように祈りを扇いでいる。人形使いは倒木の陰に身を潜め、何体もの人形を操りながら神と悪魔の戦いを演じている。観衆は皆どこかに抜け出してしまった己の魂に焦がれるように、虚ろで燃えるような目をして見入っていた。
それらはあたかも曼荼羅のようでもあり地獄絵のようでもあったが、こうして村人たちはこの世の宇宙から天界と魔界を行き来し、未来や過去と交信する。神と一体化し、自分たちの居場所を確認して、魂を浄化させ、安息を得る。彼らは今いるこの世界が知恵の輪のようにねじれながらあらゆる世界と繋がっていることを知っているのだ。
――松明の炎に揺らめく熱、蠢く指先、生贄から滴る血、頭巾から覗く充血した目、歪む老婆の口、牙を剥く悪魔、もたつく牛の蹄、朗々と響く読経の声、零れ落ちる涙、闇に染み込む久遠の音色、黒く切り抜かれた寺の影、青く霞んだ月……そしてそれは夜半過ぎまで途絶えることなく続くのだった。
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地獄への階段 ― 2006年06月01日 16時32分32秒
突然目の前が暗くなると湯船の底が抜けて、俺は一瞬宙に浮いた後、何かを掴む間もなくその暗い奈落に落ちていった。つるつるしたパイプのような道が曲がりくねって地の底まで続き、俺はその中を転がるように滑っていった。
やがてあたりに赤い光が差してきたかと思うと、俺の体は赤黒い巨大で邪悪な世界の中に無慈悲に放り出された。
「いてて……」
裸の尻をさすりながらあたりを見回すと、下に長く延びた石の階段があり、よろよろと牽かれるように降りていくと、数人の女の鬼たちに恥ずかしがる暇もなく引っ立てられた。
閻魔様はまだずいぶんと若く、顎にヒゲをたくわえていたが、髪は金色に光っていた。側近の差し出すファイルをふんふんと覗き込んでいる。
「ええっとぉ、あんた、奥さんを長いこと構ってやらなかったろ。だからこんなとこに来てるわけ。わかってんの?」
「……で、でも、それはあいつが……」
「あぁ、それと一応死因は入浴中の心筋梗塞ってことだから。お気の毒ぅ」
それから俺はあらゆる地獄の責め苦を負うことになった。ある時は容赦ない殴る蹴るの暴力、またある時は滅茶苦茶な味付けの料理、そしてある時は陰惨な言葉責めと、女鬼たちは手をかえ品をかえ執拗に俺を攻め続けた。
それは凄惨を極め、もはや並の神経では耐え抜くことは不可能と思えたが、長年嫁との生活を生き抜いてきた俺には、そんなものは蚊が刺したほどにも感じなかった。
いつまでたっても衰弱も発狂もしない俺を見て、閻魔様はある日俺を呼び寄せると、持っていた杖の柄で俺の頭をポカリと殴った。
寒さに震えながら目を覚ますと、そこは俺の家近くの公園の砂場だった。
俺は生き返ったのか?――不思議に思いながら、誰にも見られることなく家まで帰り、玄関への階段の前に立ってハッと気が付いた。
俺はよろよろと階段を上り、裸のせいだけではなく微かに震えるその指でこの世の地獄の呼び鈴を鳴らした。
http://mayu-kids.asablo.jp/blog/2006/04/16/329421
やがてあたりに赤い光が差してきたかと思うと、俺の体は赤黒い巨大で邪悪な世界の中に無慈悲に放り出された。
「いてて……」
裸の尻をさすりながらあたりを見回すと、下に長く延びた石の階段があり、よろよろと牽かれるように降りていくと、数人の女の鬼たちに恥ずかしがる暇もなく引っ立てられた。
閻魔様はまだずいぶんと若く、顎にヒゲをたくわえていたが、髪は金色に光っていた。側近の差し出すファイルをふんふんと覗き込んでいる。
「ええっとぉ、あんた、奥さんを長いこと構ってやらなかったろ。だからこんなとこに来てるわけ。わかってんの?」
「……で、でも、それはあいつが……」
「あぁ、それと一応死因は入浴中の心筋梗塞ってことだから。お気の毒ぅ」
それから俺はあらゆる地獄の責め苦を負うことになった。ある時は容赦ない殴る蹴るの暴力、またある時は滅茶苦茶な味付けの料理、そしてある時は陰惨な言葉責めと、女鬼たちは手をかえ品をかえ執拗に俺を攻め続けた。
それは凄惨を極め、もはや並の神経では耐え抜くことは不可能と思えたが、長年嫁との生活を生き抜いてきた俺には、そんなものは蚊が刺したほどにも感じなかった。
いつまでたっても衰弱も発狂もしない俺を見て、閻魔様はある日俺を呼び寄せると、持っていた杖の柄で俺の頭をポカリと殴った。
寒さに震えながら目を覚ますと、そこは俺の家近くの公園の砂場だった。
俺は生き返ったのか?――不思議に思いながら、誰にも見られることなく家まで帰り、玄関への階段の前に立ってハッと気が付いた。
俺はよろよろと階段を上り、裸のせいだけではなく微かに震えるその指でこの世の地獄の呼び鈴を鳴らした。
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桜 ― 2006年06月01日 16時33分09秒
夜の公園には満開の桜が街灯の光に色づきながら、真っ黒な空を覆い尽くすように群れをなして広がっていた。
僕はミニチュアの天文台のドームを二つ組み合わせたような不思議な形をしたオブジェに備え付けられたベンチに座って、桜を見上げていた。
シートはメッシュのスチール板で出来ていて、お尻は冷たくひんやりとした。周りはカプセル状に外界と遮断されていて、まるで冷たく硬い繭の中に閉ざされた蛹のような気分になった。
僕は朝いつもと同じように家を出て会社のある駅で降り、夜いつもと同じように自宅近くの駅まで戻ってきたが、会社には行かなかったし、まだ家にも帰っていなかった。
会社近くの裏通りに入ると骨董屋のような店構えの雑貨店を見つけ、白鳥の形をしたバナナスタンドを買おうと思ったが、かさばるので諦めた。
街を行き交う人たちは、皆それぞれの人生の秒針の上で踊るように正確でせわしげだったが、ヘッドホンステレオのレ・リタ・ミツコはそんな風景をゴダールの映画のシーンのように僕に見せてくれた。
もう既に零時を回っているはずだが、公園の中は夜桜見物をする人達や、ジョギングをする人、肩を寄せ合うカップル、犬の散歩をしている人などで溢れかえっていた。
僕はこの繭の中からずっと桜を見上げ、降り注ぐ淡い光に目を細めていた。頭の中からエミリー・シモンが甘く切なく僕に歌いかけると、光が滲んで溶けだし桜もふわりとぼやけた。
公園の周りにある街灯に照らされた遊歩道の向こうから、若い男女がバレエのステップを踏むように歩いてきた。男は急に女の足を止め、女はしなをつくって男の顔を見上げた。男は女の腕を掴んで公園をバックに立たせると、女の写真を撮った。フラッシュがあたりにこだまし、世界中から祝福を受けたような女の顔が薄暗い空気の中にポッと浮かび上がった。
僕は両耳からイヤホンを外すとさっきまで見ていた桜を振り返り、そっと瞼でシャッターを切った。
http://mayu-kids.asablo.jp/blog/2006/04/16/329426
僕はミニチュアの天文台のドームを二つ組み合わせたような不思議な形をしたオブジェに備え付けられたベンチに座って、桜を見上げていた。
シートはメッシュのスチール板で出来ていて、お尻は冷たくひんやりとした。周りはカプセル状に外界と遮断されていて、まるで冷たく硬い繭の中に閉ざされた蛹のような気分になった。
僕は朝いつもと同じように家を出て会社のある駅で降り、夜いつもと同じように自宅近くの駅まで戻ってきたが、会社には行かなかったし、まだ家にも帰っていなかった。
会社近くの裏通りに入ると骨董屋のような店構えの雑貨店を見つけ、白鳥の形をしたバナナスタンドを買おうと思ったが、かさばるので諦めた。
街を行き交う人たちは、皆それぞれの人生の秒針の上で踊るように正確でせわしげだったが、ヘッドホンステレオのレ・リタ・ミツコはそんな風景をゴダールの映画のシーンのように僕に見せてくれた。
もう既に零時を回っているはずだが、公園の中は夜桜見物をする人達や、ジョギングをする人、肩を寄せ合うカップル、犬の散歩をしている人などで溢れかえっていた。
僕はこの繭の中からずっと桜を見上げ、降り注ぐ淡い光に目を細めていた。頭の中からエミリー・シモンが甘く切なく僕に歌いかけると、光が滲んで溶けだし桜もふわりとぼやけた。
公園の周りにある街灯に照らされた遊歩道の向こうから、若い男女がバレエのステップを踏むように歩いてきた。男は急に女の足を止め、女はしなをつくって男の顔を見上げた。男は女の腕を掴んで公園をバックに立たせると、女の写真を撮った。フラッシュがあたりにこだまし、世界中から祝福を受けたような女の顔が薄暗い空気の中にポッと浮かび上がった。
僕は両耳からイヤホンを外すとさっきまで見ていた桜を振り返り、そっと瞼でシャッターを切った。
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